源義高 と 安徳天皇 | 安濃爾鱒のノート

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なんというか、私の「ノート」です。

 それは、平氏の天下の終わりの始まりであった。

 

 治承4年(1180年)4月、以仁王は、ついに平氏討伐を決意し、平氏追討の令旨を全国に雌伏する源氏に発した。

 

 源義仲は、これにいち早く呼応し、直ちに挙兵した。

 

 以仁王は、後白河天皇の第三皇子。

 

 源義仲(通称 木曽義仲)は、河内源氏の一族で、源頼朝・義経(義經)兄弟とは従兄弟同士の関係にある。以仁王の令旨によって挙兵し、平氏追討の戦を始めるにあたり、鎌倉の従兄弟、源頼朝と同盟を組んでいる。その子、源義高は、源頼朝の娘の許婚として鎌倉に預けられる。

 人質である。

 

(源頼朝の娘、源義高の許婚は、一般には「大姫」と呼ばれることが多いが、「大姫」とは長女のこと。本名は隠されている。妹(頼朝の次女)の名前「三幡」などから、「一幡」ではないか、と言われている。)

 

 

 やがて、源義仲 の軍勢の方が源頼朝方の軍勢より先に京に到達し、源義仲軍が平家一門を京より追い落とし、源義仲が京の都の事実上の「主」となった。

 

 が、皇位継承問題への介入・京都の街の治安の回復に失敗などにより、後白河法皇の信任を失い、後白河法皇は頼朝に宣旨を下して、頼朝が「賊」である源義仲を討ち源義仲に代わってこの国の統治者となることを命じる。

 

 「源平合戦」の「オハナシ」の世界では、このときの源義仲自身とその軍勢の無教養・狼藉ぶりなどが法皇の怒りを買ったのが原因ということになっている。

 

 

 こうして、源義仲と源頼朝は敵対関係となる。

 

 鎌倉に人質として預けられていた源義仲の子、源義高は、

   源頼朝の従兄弟の子、

   源頼朝の長女の許婚

であるにも関わらず、頼朝の命で殺されてしまう。

 

 源頼朝の父:源義朝が平治の乱で平氏に敗れた際、源頼朝は、(当時13歳の子供であったが)平清盛方に捕らえられて殺されそうになったが、その際、清盛の継母・池禅尼が、清盛に対し源頼朝の助命を懇願し、その結果、頼朝は殺されずに済み、そして、流刑の地で成人し、今、平家一門を滅ぼそうとしている。

 

 源頼朝は、そんな自分自身の経験から考えて、源義仲の子:源義高をここで生かしておけば、将来、自分や自分の一門が源義高に、「父の敵」と、滅ぼされかねない。今(未だ子供)のうちに、源義高を殺して、後の憂いを排除しておかなければならない、と判断したのは当然であった。

 

 

 源頼朝の長女(「大姫」?「一幡」?)は、当時7歳、許婚源義高が自分の父親に殺されたショックで心は深く傷付き、以後ずーと20歳で人生を終えるまでずーと病の床に伏したままの人生を過ごすことになる。

 

 

 

 第81代 安徳天皇は、1185年4月25日(寿永4年3月24日)、壇ノ浦にて、祖母二位尼(平時子)に抱きかかえられて、入水した、とされている。だが、その御遺体はみつからなかった。

 

 

 鎌倉幕府の公式記録である吾妻鏡(東鏡)では、頼朝は、義経に対し、安徳天皇と「三種の神器」を、無事に確保するように命じたのに、義経は、安徳天皇を死なせてしまった。それが、後の頼朝と義経の不仲の原因の一つ だ と している。

 

 本当だろうか?

 

 歴史は、勝者が残すものである。

 吾妻鏡は、頼朝の組織、鎌倉幕府の公式記録である。

 

 頼朝は、かつて、後の憂いを排除するために、同属・親戚の子で、娘の許婚である源義高を、

周りの制止も聞かずに、娘の想いも顧ないで、断固 殺させている。そんな頼朝が、平清盛の孫である安徳天皇を生かしておいたであろうか?源義高のケースと同様、ここも、もし生かしておけば、将来、大人になった時、自分と同じことをするのではないか、つまり、頼朝及びその一門を滅ぼそうとするのではないか、と考えなかっただろうか?

 

 もし仮に、本当は、

 

   頼朝は 安徳天皇が死ぬことを望んでいて、

   頼朝と義経は、

     安徳天皇をどうするか

   で意見が分かれて仲違いとなった、

 

というのなら、

 

   義経(義經)は、安徳天皇を生かそうとした、

 

ということではないのか?


 本当は、頼朝は、義経に対し、安徳天皇を死なせることを命じ、義経がそれに背いたから、二人はやがて仲違いすることになるのではないか?

 で、その後、安徳天皇もしくは安徳天皇のご遺体は行方不明になっている。

 

 壇ノ浦の戦いが始まる前、安徳天皇は確かに関門海峡に居た。

 そこへ義経率いる源氏の軍勢が来た。

 義経は総大将ではあるけれども、最前線で戦っていた。

 そして、戦が終わった後、安徳天皇もしくは安徳天皇のご遺体は行方不明となった。

 源氏方は必死で捜索している。

 数度にわたって大掛かりな捜索を行っている。

 関門海峡はすぐに砂が溜まるところで、そんなに深くはない。

 なのに、安徳天皇のご遺体は見つからなかった。

 

 安徳天皇もしくは安徳天皇のご遺体は何処へ行ったのか?

 

 戦の間、壇ノ浦の平家一門は、源氏の大軍に包囲されており、これを掻い潜って逃亡するなんてことは不可能だったのではないか?

 

 だか、しかし、

  もしかして、

    源氏方総大将 源義経(義經) が

    源頼朝の命に背いて

    安徳天皇を逃がそうとした

  というのではないか、

というのなら、可能だった。

 

或る人のブログ によると、

 

 その家は 平家の末裔、と伝えられてきて、かつ、代々 源義経 を お祀りしている という家系がある という。

 

 

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