San José, San Vicente (Baja California, México) | 安濃爾鱒のノート

安濃爾鱒のノート

これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 東京都千代田区永田町2丁目15-1

という都内随一超一等の地に、広大な敷地を擁して 駐日メキシコ大使館(Embajada de México en Japón) は、建っている。

 大使館の周りは、衆議院議長公邸・参議院議長公邸・国会図書館・国会議事堂・赤坂エクセルホテル東急・山王日枝神社・(昔は超名門校だった)日比谷高校(庄司薫の4部作を読まれたし)と、これでもか!という並びである。

 

 明治維新当時世界一の強国だった「大英帝国」(当時)の大使館が、皇居のお堀端、半蔵門の近くという超一等地を早く押えたのは自然なこととしても、失礼ながら、México ごときが、何故そんな一等地に大使館を持てたのかには、特別な理由がある。

 

 1898年、明治天皇は、東京永田町の一等地に México 大使館を設置すべく 5000平米の土地を提供した。賃貸料は僅かではあった。(確か、年1ドルとかそんな感じの超格安)それが長年改定されず、ずーとそのままであったが、他国の大使館の例、特に新興国の大使館のケースと比べ、余りにバランスを欠くということで、1988年より一定のプログラムのもとに 徐々に 増加されている。

 

 明治天皇御自ら México 大使館の手配をしたのには、特別な理由があった。

 この大使館用地は、

   日本と México との間の、平等な 国際条約

の調印に対する謝意として提供されたものであった。

 

 1888年11月30日、日本・México 両国は、米国 Washington において、日墨修好通商航海条約 ( Tratado de Amistad, Comercio y Navegación entre México y Japón ) に調印し国交を樹立した。

 この条約は、平等互恵に基き調印された最初の条約である。

 当時は、英米仏普露の列強に限らず、南米ペルーみたいな弱小国までもが、日本との条約締結は、

   日本に関税自主権は無し、  

   相手国に治外法権(領事裁判権)を認める

という不平等条約であるのが常識となっていた。

(「日米和親条約」 「日米修好通商条約 」 「安政五か国条約」)

 

 なのに、世界で唯一、México だけは、その慣例を無視して、日本と平等な条約を結んだのである。

 では、México は、何故、日本と平等な条約を結んだのか?

 

  御宿に

   「メキシコ記念公園」

というものがあって、その中に、

  日・西・墨三国交通発祥記念之碑(通称:メキシコ塔)

というものがある。

  (「西」は「西班牙」つまりスペイン(España)、「墨」は「墨西哥」つまり México を指す)

 

 フィリピン総督代理:(当時 フィリピンも México と同様 スペイン領)ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコ (Rodrigo de Vivero y Velasco) は、次期総督と交代の為 召還命令を受け、戦艦3隻の艦隊で (フィリピンの)マニラ から (ヌエバエスパーニャの)アカプルコ へ 向けての航海中、台風に遭い、ロドリゴの乗った旗艦「サン・フランシスコ号」は難破、千葉の、外房の御宿の辺り(正確には岩和田の田尻沖)で座礁した。このとき、当時の村民たちが総出による献身的な救助を行い、一行317名が救助されている。

 

 20年ほど前、私が、México の東海岸(:メキシコ湾側)の主要な港町である ベラクルス(Veracruz) に旅したときのこと。港を散歩していると、岸壁に

    "Onjuku" (「オンジュク」)

という名前を冠した México の沿岸警備隊(Guardia Costera)の巡視艇が 停泊しているのを見かけた。

 あれ?見間違いかな?こういう綴りの別の単語ってあったっけ?

 (スペイン語だと "Onjuku" の発音は「オンジュク」にならない「オンフク」になる)

と考えながら、ぼーと船を見ていたら、隣の船(:やはり沿岸警備隊の巡視艇) の 船橋 (ふなはし、でなく、せんきょう、ブリッジ) の乗組員(士官の制服を着ていた)が そんな私をジーと見ているのに気がついた?それで、私は、彼に対し、大声で

  ¿Porque se llama オンジュク ?" (「何故『オンジュク』って名前なのか?」)

と尋ねたら、このエピソードを教えてくれた。

 その会話が、岸壁(私)と船上・船橋(海上保安官)との間なので、双方大声でやりとりしたわけで、それで、周りに人が集まってきてちょっとした騒ぎになってしまったことがあった。

 

 この御宿での México 船座礁事件と似たような話として、

   エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni) 遭難事件

が有名である。

 1890年(明治23年)9月16日、オスマン帝国その一部は現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)が 現在の和歌山県串本町沖にある、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難し、地元、大島村(現在の串本町樫野)の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱をした。

 

 当時の メキシコ政府 や オスマン帝国の政府 が、これらの日本の漁村の人たちの行為に大変感謝したことについて、その背景に、

  昔は、難破船を見たら、「海からの恵み」と感謝して、

  積荷は略奪して、邪魔者は処分、

というのが、当時の世界の常識だった、という説明が付け加えられてこれらの話が伝えられることがある。

 

 と、これだけだと、当時の日本の田舎の漁村(千葉とか和歌山)のひとたちだけがとてもいいひとみたいだが、勿論、彼らが、とても善良で真面目ないい人たちであったことは間違いの無いことであるが、逆に、同じ時代、日本人が漂流して、メキシコ人に助けられ、手厚く保護された例もある。

 

 天保12年(1841年)、兵庫の中村伊兵衛というものの持舟

  「永住丸」 (「永寿丸」、「栄寿丸」とも)

が、外房 犬吠崎沖で嵐に合い、船頭善助以下乗組員13人、漂流した。

 やがて 太平洋上、密貿易船(名称に諸説あり)に拾われる。(これは、「拾われる」若しくは「捕まる」であって、「救助され」たとは云い難いものであった。積荷(:日本酒・砂糖・綿・線香)は盗まれ、彼らは、水夫として無給でこき使われた。)

 その後、この船は、アメリカ大陸西海岸(当時、米国領ではなく México 領)に着き、そこで彼らは労働力として利用価値が無くなったということで、México 領カリフォルニア半島の先っちょの海岸に 棄てられる。

 そこで、彼らは、その地の小さな町:

  サン・ホセ (San José)

  サン・ビセンテ (San Vicente)

の人たちに救助され、手厚く保護され援助されて生活する。

  彼らの かの地での生活を聞き取り記録したものを読むと、

    "¿Como se llama ?"

  を

    「虚無僧山」

  と覚える等、面白いエピソード満載なので、

  もし機会と暇があったらぜひ読んで頂きたい。

 そして、彼らの周りの多くの人たち (México の一般の民間人、地方の下級役人) の協力を得て、マカオ経由で帰国する。これは、太平洋の反対側までいく商船を捜す事のみならず、国家の措置として日本に送り届けられるのではないので、船賃を自分らでなんとかしなければならないことを意味する。彼らは、自身働いて貯金したりもしたが、足りなくて、周りの人から募金して貰ったりしてその旅費を用意している。

 

 同じ時代の日本人漂流者でも、「おろしや国酔夢譚」で有名な大黒屋光太夫、ロシア(Россия)に漂着した人のケースでは、ロシア(Россия)という国家の、自国の国家戦略の都合上、彼ら(:日本人漂流者)を利用する為に、彼らを保護し、その内の或る者は対日外交交渉役の者に持たせる「手土産」として日本へ連れて帰り、又或る者は日本語学校の教師として利用する、のどちらかであったが、善助らの面倒を見た México の田舎町の人たちは、そういう打算抜きで、ただの善意、親切心だけから、彼らを歓待し保護し生活の面倒を見て、帰国のための便宜まで図ってあげている。

  

 鎖国政策を敷いていた当時、海外から帰ってきた人たちはみんな、帰国後長期間監禁されて、役人の取調べ、聞き取り調査を受けた。

 彼らがかの地(:México)で経験した長閑な生活を聞いた役人に、それでは、わが国の武士団の武勇を以ってすれば、かの地(:México)を攻め落とすのは簡単だろう、と聞かれて、彼らは、そんなことは無い、と断言し、México 軍を褒めている。

 江戸時代に、町人が武士に対し面と向かって侮辱する言葉を言っているのである。