江戸時代から明治に変わる戦争:戊辰戦争に於ける、会津若松鶴ヶ城攻防戦、所謂
「会津戦争」 (慶応4年閏4月20日 - 明治元年9月22日)
の際、会津側の降伏(明治元年9月22日)で戦闘が終わった後、
新政府軍は、会津藩兵の遺体の埋葬を禁じた、
と言い伝えられていますが、これに対し、
それは事実ではない、
という主張が、大山格氏のサイトにあります。
大山格氏は大山巌の孫で、大山巌は、薩摩の出身、西郷隆盛の従兄弟で、戊辰戦争では、新政府軍側で鶴ヶ城を攻める側で参加、その妻(捨松)は、会津藩家老 山川重固の娘で、鶴ヶ城に籠城して戦った側です。つまり、大山格氏は祖父が薩摩、祖母が会津の人です。
大山格氏のサイト: 何故遺体は埋葬されなかったのか?
その内容を要約すると以下のとおり:
- 新政府は、死者の身元を確認するまでの一時的な措置として、新政府軍側・会津側双方の戦死者の遺体に触れることを禁じている。(「明治戊辰戰役殉難之霊奉祀の由來」より)
- 会津降伏後に新政府が"占領軍統治機関"として10月1日に設置した民政局の幹部は、加賀藩・越前藩・新発田藩・小倉藩の人員から構成されている。薩摩や長州の部隊や人員は、早々に会津から去った。
- その後 民政局は10月4日 遺体埋葬を命令している。(『会津若松史』六巻の、村役人が書き残した「御用留」という帳面に記載された内容より)
- それでも 現実には なかなか埋葬されず放置されていた旧会津藩士の遺体があった。
- 旧会津藩士の遺体の埋葬が進まなかったのは、このあと積雪や一揆の発生といった障害が発生したことに加え、旧会津藩士の特権意識や戦乱に巻き込まれた被害者体験などにより、会津の農民に旧会津藩士に対する同情の感情がなかったから。とくに民政局から遺棄された戦死遺体の埋葬を命じられた被差別階級の人たちは、旧会津藩士より酷い扱いをうけてきたので、彼らが旧会津藩士の遺体の埋葬をすることになって、その扱いが丁寧にはならなかった。それに対し旧会津藩士より不満がでた。
結局、これを乱暴に纏めれば、
薩摩長州の人が、会津藩士への嫌がらせとして、
会津藩士の遺体を野に放置した という事実は無い。
会津藩士たちは、
その高い誇りを持ち続けることから派生した負の作用として
長年 会津藩内の百姓町民達に対し威張り散らしてきたので、
彼ら(:百姓町民達,非武士)に人気がなく、
それで、会津の武士達が勝手にやった戦争で
彼らが勝手に負けたけど、
《 そんなことは百姓町人達には知ったこっちゃねぇよ 》
という風にしか受け取られず、
彼らの遺体の埋葬がなかなか進まない地域もあった。
ということではないでしょうか?
(大山格氏は、そうはいってないけど)
しかし、たまに、会津若松の人が今でも長州の人に対する敵愾心を持ち続けている、なんていうニュースをみかけるけど、そもそも武士なんて全人口の5%~10%程度で、しかも、会津の場合、戊辰戦争の後会津藩士達は、斗南藩(:今の青森の下北半島辺り)に移った筈で、現代 会津若松に住んでいる人の中に会津藩士の子孫はごく僅かで、殆どは 会津の農民の子孫か他所から移って来た人の筈だから、戊辰戦争を理由に長州に対し敵愾心を抱くのは、おかしな話ではないでしょうか。
---------
(2017年10月3日追記)
この件について、10/3(火) 11:05 配信の 河北新報のニュースで、続報がありました。
戊辰戦争 戦死の会津藩士「半年間野ざらし」定説覆る 「降伏直後埋葬」示す新史料
続いて、こちらは朝日新聞:
杉浦 憲二 (Sugíura Kenji)