「柳川一件」 から "tycoon" | 安濃爾鱒のノート

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これは web log ではありません。
なんというか、私の「ノート」です。

 tycoon

 

という言葉がある。

 英語仏語独語伊語蘭語葡語すべて同じ綴り同様の発音で、その意味は、

  「大物」「実力者」

など。特に、実業界での大物・実力者を意味する事が多い。

 この、"tycoon" という言葉、綴りや音の印象から、語源が中国語だと思っていたら、そうじゃなくて、語源は日本語で、幕末の南蛮人による徳川幕府の将軍に対する呼称

    「大君(たいくん)

からだそうである。英語仏語独語の辞書その他の資料、どれもみな そう説明しているから、確かなのであろう。

 で、更に、これを考え出したのは?というのを調べてみると、
   対馬藩宗家による 造語

という説を主張している資料が数点見つかる。

  朝鮮王朝と徳川幕府との間の板挟みに苦しんだ

   対馬藩 宗家 が

  苦肉の策でひねり出した造語

というのである。 

 

 この「大君」(たいくん)という言葉が生まれた経緯をよくみてみる。

 これは、

  対馬藩の対朝鮮貿易

  国書偽造事件

  (通称 「柳川一件(やながわいっけん)

か関係している。

 

 対朝鮮貿易は、室町時代初期に於いては、西国の大名・商人、対馬の諸勢力が独自に貿易を行っていた。しかし、やがて、対馬国を支配するに至った守護・戦国大名宗氏が、次第に独占的地位を固めていった。

 対馬の宋氏は、日本と朝鮮の中間に位置するその地理的条件から優位にあるところへ、平地耕地少なく朝鮮との交易に大きく依存していた事情もあり、対朝鮮貿易にその持てるリソースを集中し、また、朝鮮の倭寇対策との協調などの策も用いて、対朝鮮貿易を独占することに成功する。

 しかし、16世紀末、日本の豊臣政権による朝鮮出兵が行われ、日朝、日明関係が断絶する。(1592年(文禄元年)文禄の役、1597年(慶長2年)慶長の役)

 その後、秀吉の死、関が原の戦いを経て、徳川家康による江戸幕府が成立すると、徳川氏は李氏朝鮮、明との国交正常化交渉を開始する。

 明・朝鮮側も、秀吉の日本と国交を再開するのはありえなかったが、豊臣方を討った徳川の日本となら、国交の再開交渉もOK、と考えるようになった。

 この、徳川政権下での、対朝鮮・明国交正常化交渉は、歴史的経緯より対馬藩宗家が担当することとなる。対馬藩宗家が国交回復のための交渉役を担当するのは客観的に見て適役であり、且つ、対馬藩宗家自身も、それを大いに望んで引き受けたのであった。

 対馬藩は、日朝交渉を強力に強引に進めた。

 朝鮮側から、朝鮮出兵の際に連れ去られた朝鮮人捕虜を返せといわれれば、彼らを送還し、朝鮮側の「朝鮮出兵時の墓荒しの犯人を差し出せ」という要求には、偽犯人を捏造して差し出した。

 その甲斐あって、日朝国交回復の最終段階までこぎつける。

 日本側徳川幕府は、朝鮮側に対し、先ず、そちらが日本に、通信使を派遣してよこせ、と伝えた。

 1605年(慶長10年)、朝鮮側はこれに対し、

   まず先に 日本側が こちら(明・朝鮮)へ国書を送ること

を要求してきた。

 まず、日本から、国交再開の「お願い」の国書を送って来い、と要求したのである。

 これに対し、対馬藩は 幕府に内緒で 国書の偽造を行い朝鮮へ提出した。

 また、その内容として、明側は
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   日本側が国書に記す将軍の称号を

    「日本国王」

   と記すこと

を条件とした。

 これは、形式上

    日本の徳川将軍は

    明の皇帝の家来である

       ( 中華思想圏に於ける『中華皇帝に臣従し、

        中華皇帝より冊封を受けた外臣』という考え方 )

ということを意味する。

 これは、昔から中国歴代王朝が、その周辺国との交易においてよくやる「茶番」であり、日本でも、過去に、室町幕府3代将軍足利義満が、この方式で、日明貿易を行い、利益を上げている。但し、これには室町幕府内からも批判が出ている。

 しかし、日本側徳川幕府は、明との対等関係での国交回復を考えており、当然、この「日本国王」は 受け容れられない。また、この国交回復、通商条約交渉は、それに先立つ文禄・慶長の役の講和条約の交渉でもあり、ここで、日本側が、仮令形式上だけと雖も、徳川将軍が、明の皇帝の家臣であることを書き記せば、文禄・慶長の役は 日本の敗けであった、ということを意味する。

 日本側とすれば、文禄・慶長の役の実際の戦場では負けた覚えは無い。

 朝鮮を経由して明まで進軍しようとして途中で進軍が止まり膠着状態になったが、負けたことはない。秀吉が死んで、日本側が勝手に兵を戻しただけ、と考えている。その意味でも、この「日本国王」という表現は 受け容れられない。その為、対馬藩は「日本国王」と記した国書の偽造を行い朝鮮へ提出したのであった。

 朝鮮側は、書式から偽書だと判っていながらわざと騙されて、朝鮮は「回答使」を派遣した。( 朝鮮は、明の属国で、この交渉は、形式上は、日本と明との間の交渉となり、対馬藩が徳川幕府を騙すのを担当し、朝鮮が明王朝を騙すのを担当したようだ。)

 これをそのまま江戸へ送れば、

  《 徳川幕府としては、

    国書なんか送った覚えが無いのに「回答」が来るとは

   おかしい 》

となるので、対馬藩はこれを、「回答使」 ではなく、(以前より幕府が要求していた)「通信使」である と 偽って、江戸へ送ることにする。

 対馬藩は更に 回答使 の返書も改竄し、これを持たせて「通信使」と偽る「回答使」を江戸へ送った。

 使節は江戸城にて2代将軍徳川秀忠と謁見、続いて駿府で(建前は隠居中の)徳川家康と謁見した。

 1609年、貿易協定である「己酉約条」が締結される。

 1617年、1624年と三次に渡る交渉でも 対馬藩は 夫々国書の偽造、改竄を行っている。

 

 対馬藩の家老であった柳川調興(やながわ・しげおき)が、この対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た。

 柳川調興は宗義成(そう・よしなり)の家臣から旗本(徳川の直接の家臣)への昇格転進を狙っており、藩主である宗義成と対立した。(これは、戦国時代では良くあったこと。当時、戦国時代の下克上の風潮が未だ残存していた。)

 柳川調興は、

  • 自分は、徳川家康の覚えが良い。(と、柳川調興の方は思っていた) (:徳川家康は、この頃は 名目上は将軍職は退いているが、事実上の最高権力者であった)
  • この計画を、一部幕閣有力者に持ちかけたところ、支持があった。
  • 《 幕府も対朝鮮貿易の実権を直接握りたいであろう 》との推測 などから、「これはいける!」と考えていた。

 そういう計算の上で、対馬藩の国書改竄の事実を、幕府に対して訴え出た、といわれている。

 

 寛永12年(1635年)3月11日、そのとき江戸に居合わせた全ての大名が見守る江戸城大広間の、三代将軍家光御前にて、

     藩主:宗義成 対 家老:柳川調興

の直接の口頭弁論が行われた。

 結果、幕府は、

  宗義成  は 無罪、

  柳川調興 は 津軽に流罪

と裁定した。

 また、この対馬藩の対朝鮮外交の実務の多くは、対馬にあった寺院:以酊庵(いていあん)( 基礎教養として漢詩文を学び漢文能力に優れる禅僧が居た )が関わっていたので、この以酊庵の庵主であった禅僧・学者:規伯玄方(きはく・げんぼう)も、この国書改竄の犯人の一味として南部に流された。

 この裁定の表向きの理由は、当時 宗義成は 未だ12歳と幼く、実務を行っていた柳川調興らの一味が真犯人である、となっている。

 

 これにて、対馬藩藩主宗義成は対朝鮮外交における権限を回復させたものの、そのときの対馬藩宗家には、権限はあっても実務が出来ない。

 実務のための各種ノウハウ

    対朝鮮外交に不可欠であった漢文知識、

    朝鮮側との人脈

は、実務を担当していた柳川調興(家老)や規伯玄方(以酊庵) が持っていた。で、その柳川調興・規伯玄方が流罪になったのである。

 その為、対馬藩藩主宗義成による対朝鮮外交は完全に機能停止してしまう。

 宗義成は幕府に援助を求めた。

 そこで、寛永12年(1635年)、幕府は京都五山の僧の中の漢文に通じた優秀者、所謂「五山碩学」(ござんせきがく)を、輪番制で「朝鮮修文職」に任じて 対馬の以酊庵に派遣し 外交文書作成 ・ 使節の応接 ・ 貿易の監視 などを担当させることとした。(学問に励む碩学の僧侶を幕府が保護する制度:「五山碩学」自体は、慶長19年3月29日(1614年5月7日) より始まっている。)

 彼らは、逐一詳細を江戸に報告する。

 その結果、対朝鮮貿易の実務は以前と同じく対馬藩に委ねられたものの、幕府の厳しい管理下に置かれることとなる。

 

 つまり、元々、豊臣政権による朝鮮出兵(:文禄・慶長の役)の前、うまみのある対朝鮮貿易を対馬藩宗家が独占してきた。徳川政権になって、貿易を再開するにあたり、宗家の家臣、柳川調興が、幕府に対し、

   対朝鮮交渉の実務は私がやってますんで、

   私を将軍の直接の家臣(幕臣、旗本)にしてください。

   対朝鮮貿易を幕府が直接やって、

   うまみを幕府で独占しましょう

と持ちかけたところ、幕府は、

   なるほど、柳川の云うとおり、

   貿易を幕府が直接管理してそのウマミを

   幕府が頂くことにしよう、

   但し、主君を裏切った柳川調興は要らん。片付ける。

   宗義成は、大した事無い奴だから片付ける必要なし。

   まぁ、雑役担当に置いとけ、

という判断をした、というところか。

     

ここで、幕府は明・朝鮮に宛てた国書に記す将軍の称号を

  「日本国王」

から

  「日本国大君

に改めることとなる。

 これが、日本の外交用語:

    「大君(たいくん)

の始まりだという。

(そして、ここから "tycoon" )

 

 最初は、明・朝鮮に宛てた国書のための用語だったものが、幕末になって欧米列強とも条約締結することになり、それらの国に対しても、同様にこの外交用語を使ったということである。

 

 資料、例えば、対馬藩を研究したものなどに拠れば、これを考えたのは

   対馬藩宗家

となっているものがあるが、上の経緯を見ると、これは、幕府の閣僚・学者 が考えた と 考える方が辻褄が合う。

 

 尚、これだけ多くの人の人生を狂わせた対朝鮮貿易であるが、朝鮮からの主な輸入品であったハイテク(当時)製品は、やがて日本国内でも生産されるようになり、ウマミがあったのは、実はごく僅かの期間であった。