アントニオ猪木自伝の感想に感動!燃える闘魂の生き様! | 心と体を健康にするダイエット法

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いつもありがとうございます。
ハッピーダイエットの船田です。

私は少年のころ虚弱体質でしたが、プロレスのアントニオ猪木を見て、体を鍛える決意をしました。

アントニオ猪木のお陰で、心身共に強くなれたことに感謝しています。

もちろんプロレス等のショー的な試合は、GHQの3S政策の一環だったと思いますが、アントニオ猪木を日本人に見せたのは逆効果だったと思います。

日本人に燃える闘魂を教えてくれましたからね。

今回、木村正治さんの記事で自伝の話があり、私も知らなかったアントニオ猪木の苦悩が描かれていて、感動しましたのでご紹介します。

今からプロレスを習う人はいないでしょうが、心の安定を保つ方法や、悔しい時の考え方など、参考になると思います。



アントニオ猪木こと猪木寛至さんの自伝を
20年ぶりに合間に読んでいますが、これは
様々な要素が詰まった良い内容ですね。
人間学、または人材教育のテキストにしても
良い内容だと感じました。
あらゆる社会人としても参考になる内容です。

人との交渉、資金問題、プロモーション、信用、
様々な人模様と離反、そのような社会人として
仕事をする者ならば避けては通れない場面や内容
における含蓄に富んだ教訓が散りばめられています。
アントニオ猪木こと猪木寛至さんはプロレスラー
としてプロレスを浸透させただけでなく経営者に
もなりまた政治家にもなり、その様々な風景の中
から人間としてほとばしる含蓄が感じられます。

アントニオ猪木自伝を読み直していくうちに
いつしか私もアントニオ猪木こと猪木寛至さんから
教えを受けているかのような感覚になりました。
信用される人と信用されない人とは何が違うのか、
またビジネスや世の中、生きていく上で何が大切
なのかをアントニオ猪木自伝を読み直していくうちに
感じました。

内容が多岐に渡り様々な内容がありましたが、
言い訳をしないアントニオ猪木があまりに語らない
ために世間に誤解されていた異種格闘技戦での
モハメド・アリとの試合を巡る背景を抜粋して
伝えたいと思いました。
当時はメディアからは「世紀の凡戦」と酷評され
そのまま歳月が流れましたが、事実を知れば認識
が全く違ったものになります。

以下、アントニオ猪木自伝187ページからを
抜粋して転載します。

(以下、転載)

試合の前日の夕方からルールの最終確認に入った。
ところがその場にアリが出てこないのである。
突然新しいルールを突きつけ、これが呑めないなら、
アリにキャンセルさせると言い出した。
キャンセルする理由としては、指を痛めたことに
すればいい、とまで言う。
これはボクシングがよく使う手だ。
私は、一切の条件を呑むか、この試合を中止するか
の選択を迫られた。
もしやらなければ、私は終わりだ。
「ほら、見たことか。猪木の奴、いい気になってる
からだ。ざまあみろ」
という声がそこまで聞こえてくる。

私は新間に、すべての条件を呑め、と命じた。
私には誇りがあった。
絶対に勝てる。
どんな事をしても勝ってみせる。
呑まされたルールは、しかし私にとって苛酷なもの
だった。

アリへの頭への攻撃は禁止。
空手チョップは禁止。
頭突き、喉への攻撃は禁止。
立った状態でのキックは禁止。
肘と膝を使った攻撃は禁止。
ロープに触れた相手を攻撃することは禁止。

これでどうやって闘えば良いのか。ヘッドロックも
バックドロップも反則だ。ほとんど全てのプロレス技
は使えないことになる。それでも呑むしかなかったし
後悔はしていない。
試合の当日、私はもうやるだけの事は全てやったのだ
と自分に言い聞かせた。
あとは結果を出せばいい。
新間は思い詰めた表情で密かに作らせた鉄板入りの
リングシューズを持ってきた。
向こうが汚い手で来るなら、こっちも応戦するしか
ないと言うのである。
新間の気持ちもよく分かった。
しかし私は履かなかった。
もし履いていれば一撃でアリの足を折っていただろう。
だが、それでは後で悔いることになると思った。

ところが後に分かったのだが、アリはグローブの
上から石膏を注射し、バンテージを石のように固め
ていたらしい。
高橋氏が言うように、一発で目が潰されるところ
だった。パンチがかすっただけで大きな瘤が出来た
のだから。
正々堂々などという甘い世界ではなかったのだ。
あらゆる知恵をお互いが絞り合い、とにかく相手を
倒せばいいという闘いだったのである。

昭和51年6月26日。
日本武道館で「格闘技世界一決定戦」が行われた。
メインイベントは中継の関係で午前11時50分
スタート。
私のセコンドにはカールゴッチ、坂口征二、山本小鉄
がついてくれた。
ゴングが鳴って、私はコーナーから飛び出し、
スライディングしてリングに横たわり、アリの足を
蹴り続けた。
あのルールの中では、私は寝て戦うしかなかった。

          〜以上、転載を終える〜

このような背景があるとは大多数の人々は
全く知らず、マスコミはアントニオ猪木を酷評
しましたが事実を知ればいかに愚かな事かと
分かります。

後に政治家になったアントニオ猪木ですが、
湾岸戦争の際にイラクで日本人が人質にされ
官邸も外務省もお手上げだった時にイラクの
サダムフセインの弟が
「日本人ではアントニオ猪木となら話をしても良い」
となりアントニオ猪木が単身でイラクに乗り込み
サダムフセインの弟と交渉、日本人人質は解放された
事は記憶に新しいです。
この時の日本人人質解放の身代金はアントニオ猪木
が個人で借金をして支払ったと仄聞します。
官邸や外務省はアントニオ猪木によるイラクの
日本人人質解放を触れたくないようですが人間の
信用というものはどこから根差すものなのかを
感じる良き場面だったと言えます。

人間力、人間としての信用、総合力ということを
感じさせられます。

アントニオ猪木自伝は50歳の私が今、読み直して
様々に気付きや学びを感じる良い内容です。
一読をお勧めします。



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アントニオ猪木こと猪木寛至さん
の自伝を20年ぶりに読み直して
みましたが、その辺のノウハウ本や
ビジネス本よりは遥かに様々な含蓄のある良い内容でした。

異種格闘技戦で世間から誤解されていた
アントニオ猪木でしたが、実は先日投稿した
ように余りにも一方的な苛酷なルールを
示されていたという事実がありました。
これは外交や対外的なビジネス、商談など
にも本質は当てはまります。
何事も事実を知らなければなりません。

また何故、アントニオ猪木があのような理不尽な
ルールが課せられていた事実やモハメド・アリの
様々な不正行為などを世間に発表しなかったの
かという思いがしますが、もし事実を全て公表
されていたならば日本全体やお茶の間が、
モハメド・アリは卑怯だ、けしからん、そのような
試合ならばしなくて良い、と沸騰した事は
間違いありません。
もしそのような展開になればモハメド・アリの
評価は地に落ち、その後のキャリアにも多大な
悪影響が生じたでしょう。
それをアントニオ猪木は避けたのかなと感じます。

外交や戦争、プロパガンダ、ビジネスの駆け引きも
同じですが相手に有利に立つために様々な虚勢や
仕掛けがされます。
一線を超えると信用を失い意味がないですが、
異種格闘技戦の駆け引きから様々な本質を自伝
から感じ取りました。
このような事実を知った上で改めて異種格闘技戦
のアントニオ猪木とモハメド・アリの試合を動画
で見れば認識が新たになるでしょう。

モハメド・アリについてアントニオ猪木自身が
自伝の中で述べている箇所を転載したいと思います。
192ページから転載します。

(以下、転載)

6ラウンドに一度だけアリを捕まえて倒し、上に
なった。その時に肘を一発入れていれば終わって
いたかも知れない。だが、私はあのとき肘を落とさ
なかった。反則負け覚悟で肘を落とせば観客は満足
しただろう。
しかし、自分でも分からないのだが、それが出来な
かったのだ。

アリを蹴り続けた私の右足は剥離骨折していた。
日本を離れたアリは左脚血栓症で1ヶ月入院し、
ケン・ノートンとの次の防衛戦を延期してしまった。
一夜明けると義父が新聞を全紙買ってきた。
スポーツ新聞でさえプロレスの記事を扱わなく
なっていた時代だが、さすがにアリ戦に関しては
全部一面だった。
それがまた、見事にどれも酷評なのである。

世間は私を笑いものにしている。
アントニオ猪木だけではなく、プロレスという
ジャンルそのものが嘲笑されているのだ。
私は落ち込んだ。
しかし事後処理が山のように残っていて、会社に
行かなければいけない。
やっとの事で勇気を奮い起こして家を出た。
痛む足を引きずって大通りに出て、タクシーを
拾おうと手を挙げたら、通り過ぎていったタクシー
が急停車し、わざわざバックしてきた。
運転手が窓を開け、こう言ったのである。
「やあ、猪木さん、昨日はごくろうさん。
良かったね、見たよ」
あのとき、その一言がどれだけ私を力付けてくれた
ろう・・・・・・。

私がアリ戦で学んだものは大きい。
世界のスーパースターであるモハメド・アリという
男と闘うことで、これまで体験したことのない世界
を覗いたのだ。
アントニオ猪木という一人の男にとって、人間形成
の上でも大きな出来事だった。
しかし、その後にくるツケもまた大きかった。
何よりも、アリの一言がこたえた。
「あの試合はお遊びだったんだよ」
私には全力で闘ったという自負があった。
戦った者として、アリと気持ちが通じ合えたと思って
いた。それが「お遊び」と切り捨てられたのだ。
どーんと谷底に突き落とされたような感じだった。
アリからすれば、私がいくらプロレスで世界チャンピオン
でも、それはプロレスの枠の中だけのことだった。
私は自分がアリと肩を並べたツモリだっが、アリの
方では私のことをまったく認めていなかったのか。

どんな試合であれ、戦った者は対等のはずだ。
しかし、その後の扱いは残酷なまでに違う。
世界のアリの発言は、あの試合の評価を確定した。
いくら私が声を張り上げても、誰も聞いてくれない。
私は悔しかった。
アリを恨んだ。
新間たちは、何とかアリをもう一度引っ張り出し、
今度こそプロレスの恐ろしさを見せつけてやろう、
と動いていた。
私はもうどうでもいいと思った。
あのときの悔しさと、アリへの恨みは長くダメージ
として残った。
アリのことを思い出すたびに私は苦しんだ。

だがある時、私はまたアリのことを考えていて、
こう思った。
私はアリを3ラウンドで捕まえられると思っていた。
ところが15ラウンド使っても捕まえられなかった
ではないか。あれだけ蹴ったのに、アリは最後まで
立っていた。私が捕まえられなかったのではなく、
アリが捕まえさせなかったのだ。
私も怖かったが、彼も怖かったろう。
それでもアリは逃げずに私を挑発し続け、最後まで
闘ったのだ・・・・・・。

初めてアリを認めることが出来たときに、それまで
怨念で波立っていた心が、すっと鎮まって行くように
感じた。
私は初めて心の平和が取り戻せた。
素直に相手の凄さを認めることで、ようやくアリを
受け入れることが出来たのである。
その後も一流ボクサーたちと闘ったけれど、やはり
アリはすべての面で違っていた。
凄い選手だったと思う。
アリと闘った多くの選手の中で、今でも交流がある
のは私だけだという。
アリもまた、私との試合で何かを得たのだと信じたい。

私が肘を落とせなかったように、アリもまたパンチを
放つチャンスが何回かあったのに、出さなかった。
いや、出せなかったのだと思う。
うまく言えないが、何かの力が働いて、互いに
出来なかったのだ。
そういうことがギリギリの闘いの中に存在するという
ことを、私は学んだ。

アリと私は親友になった。
会えば、言葉を交わす必要はない。
会った瞬間に通じ合えるのだから。
私のテーマ曲「炎のファイター」はもともとモハメド・アリ
の評伝映画「アリ・ザ・グレイテスト」のテーマ曲
で、アリがプレゼントしてくれたものだ。
私の引退試合にアリを呼ぶことになったとき、彼の
マネジメント会社は、私たちには理解できない、
勝手に二人でやって下さいと言ったそうだ。

今考えれば、あの試合で得たものはとてつもなく
大きい。
アリと闘ったということで私は世界的な知名度を
獲得した。
全世界、どこに行ってもモハメド・アリと闘った
私は知られている。
特にイスラム圏ではそのことが絶大な力を発揮して
くれ、政治家だったときの私の武器となった。

            〜以上、転載を終える〜

いかがでしょうか?
歳月を重ねて年齢を刻むと若い頃には分からなかった
様々な教訓やヒントに満ちているアントニオ猪木の
言葉ですね。
ちなみにこの自伝は文庫版となり加筆もされた
もので、アントニオ猪木が55歳の時のものです。
もっと晩年になった人間としてのアントニオ猪木の
言葉を読んでみたいとも感じます。

思い返せば2005年の衆議院議員選挙に際して
大阪13区からアントニオ猪木の専属医師だった
富家孝さんが当時の民主党公認で立候補され、
市議だった私は富家孝さんの選挙戦を応援しました。
その選挙戦にてアントニオ猪木が富家孝さんの
応援演説に駆け付けてきましたが、アントニオ猪木
が公用車で現れて街宣車に向かって歩く時に
猪木に群がる聴衆を側近が掻き分けながら街宣車
の前に立つ私や他の議員、関係者に歩み寄ってきた
その刹那、私とアントニオ猪木の目が合いました。
次の瞬間、アントニオ猪木は私と握手をして、
他の議員や関係者には握手もせず街宣車の上に登り
富家孝さんの応援演説を始めました。

子供の頃から見ていたアントニオ猪木と私が
会ったのは、この時が最初で最後になりましたが
今でもアントニオ猪木が真っ先に私にだけ握手を
してきた光景を光栄に思います。

アントニオ猪木の自伝には他に様々な会社経営
を巡る舞台裏の話などが述べられていて、これは
社会人として様々に良い教訓になると感じる内容
ばかりです。
また改めて別の投稿にて転載したいと思います。

今の時代の日本に、アントニオ猪木のような
人物が求められますね。