能登半島のようないずれ消滅する過疎地を復興する必要があるのかという論調 VS 田中角栄の言葉! | 心と体を健康にするダイエット法

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いつもありがとうございます。
ハッピーダイエットライフの船田です。
 
今回の能登半島地震に対して、あと20年で消滅するような過疎の地域を復興するのに、税金を投入する必要があるのかという論調の意見があるのでシェアしました。
 
私は、そのような意見は、日本が衰退し続ける前提で、悲観的すぎる「学者バカ」の意見だと思いますが、
 
数年前に書かれた田中角栄元総理大臣の記事もシェアしましたので、比べてみてください。
 
田中角栄氏の言葉を記事としてみると、涙が出てくる人情があります。
 
政治は生活だ! by 田中角栄
 
彼は残念ながら闇権力に撃ち落とされましたが、たった2年で日本のインフラ基盤を整備してくれたことには感謝しかありません。

逆に言えば、今の政治家も闇権力に反抗すれば、2年で日本は変わるはずなのに、2世議員の坊っちゃんには、逆らう勇気がないのでしょう。

田中角栄氏のような政治家は、もはや一人もいない日本ですが、せめて過去の偉人の言葉をかみしめて、今の狂った評論家や政治家を批判する力に変えたいと思います。
 
ちょっと長いですが、読む価値はありますよ。感動しますからね!
能登半島地震であえて問う、20年後に消滅する地域に多額の税金を投入すべきか
 
人口減少の日本で問われる、何がどこまで公費で救済されるべきかの線引き
 
2024.1.11(木)山本 一郎
(山本一郎:財団法人情報法制研究所 事務局次長・上席研究員)
 
 2024年の幕開け早々、能登半島北端の輪島市、珠洲市周辺を襲った巨大地震。山がちな半島特有の地形や寸断された隘路に悩まされていましたが、ホバークラフトが投入されるなどして、ようやく被災地に暮らしていけるだけの物資が輸送できるようになってきました。
 
 大型の余震や豪雪などの悪天候もあり得る中で、ギリギリの人命救助や輸送作戦も行われています。石川県の皆さんだけでなく、応援に入られた各都道府県消防・防災ご担当者や防衛省・自衛隊、海上保安庁および電力会社や通信会社、医療関係者ほか各民間の皆さんのご努力には本当に感謝に堪えません。
 
 
総理の岸田文雄さんも、巨大地震発生の報が入るや発生1分後には対策室を設置。5分後には関係部門への指示出しを行うなど、きちんと初動の対策に力点を置き、状況把握や人命救助、物資輸送に尽力されました。
 
 石川県知事の馳浩さんや副知事・西垣淳子さん以下、地元も不眠不休に近い激務にて対応を進めています。その結果、良い意味で、国と県・自治体および各省庁・民間の連携が取れたのではないかと思います。
 
 
余震も予想される中、気を緩めることなくご安全に対処を続けていただければと願っております。
 
 災害関連死を含め、住民278人が犠牲になった2016年熊本地震では1万を超える自衛隊員が展開していました。それを踏まえ、一部のマスコミは自衛隊投入の規模や時期に関して岸田政権を批判する言動が見られます。
 
 ただ、熊本にはもともと自衛隊基地や駐屯地がある土地柄です。また前述の通り、山がちな能登半島の場合、道路が寸断され、海面が隆起して港湾が使えなければ、陸路も海路もそう簡単には使えず、部隊を大規模に展開する平地も少ないという事情から、同時に大人数を投入することが困難であった事情は斟酌されるべきではないかと思います。
 
 また、岸田政権に対する批判として、閣議決定で暫定的に出せる金額に過ぎない40億円前後の災害対策費が過少であるとの指摘もありました。ただ、これは国会審議を経る前に、政権の一存で出せる金額がまずは40億円であるというだけです。
 
 2023年度(令和5年度)の予備費は4580億円ほど残っており、今月開催される通常国会で補正予算が順当に組まれれば、2月上旬には予備費を使い切るまでに充分な予算が投下できるようになるでしょう。現状では、岸田文雄さんは1兆円を超える復興予算を組むとされており、なかなか強烈なものがございます。
 
議論の仔細は大濱崎卓真さんが別で記事を書かれておりますので、そちらをご参照ください。

 【関連記事】
◎能登半島地震対応の予備費40億円が「少なすぎる」はミスリード。災害時の予算措置について考える

 岸田政権によるここまでの激甚災害の対応を振り返ると、各省庁、石川県と関係事業者、医療関係者の活動を潤滑に進められるようセンター役に徹して、とてもうまく初動の災害対応は乗り切ることができたのではないかと思います。

 他方で、石川県知事の馳浩さんが副知事の西垣さんと調整したうえで、奥能登の病院を一つにまとめる大胆な医療改革を元旦の新聞でぶち上げた夕方に、地震が起きたのはすごいタイミングでした。

 ここでもし現地医療を支える珠洲総合病院や輪島総合病院、宇出津総合病院、穴水総合病院がなかったら、と思うと肝が冷える気がいたします。

 もっとも、金沢大学など地元の医局もカツカツで回っている面もある中、この4病院は基幹病院としてはびっくりするほど不採算なので、能登半島地震の復興予算でこの辺の医療提供体制をどう扱うかという線引きを最初に決めておかないと本当に地雷だと思っています。そのぐらい、僻地での医療は大変なことなのだという思いを新たにしています。

 今後は岸田文雄さんの現地入りと併せ、1月下旬に開幕する通常国会の前半では、1兆円規模と見られる能登半島地震の復興メニューに向けた政策議論が始まるのではないでしょうか。

 さて、ネットでも米山隆一さんや飯田泰之さんら論客が復興のあり方について議論が重ねられていますが、目下問題になるであろう問題は掲題した「25年後には確実になくなっているであろう、珠洲市や輪島市などにある限界集落に復興予算をどこまでつぎ込むのか」です。

■ 放っておいたらなくなる集落まで復興の対象とすべきなのか? 

 先に、この議論でよくある誤解を先に指摘しておくと、例えば、人口1万2000人あまりの珠洲市は高齢化率、つまり65歳以上人口(老年人口)の割合は51%を超えており、社会保障・人口問題研究所の推計では2040年時点の人口はおよそ7000人にまで減る可能性が示唆されています。激甚災害もあったことで、おそらくこの推計以上に人口減少は進むものと見られます。

 これはあくまで市全体の人口推移であり、限界集落、超限界集落の高齢化率はほぼ100%。一部推計では完全有業者率(自ら何らかの業を営み生計を立てていて年金など何の政府補助も受けていない人)も、5%を切っていると見られます。

 超限界集落した地域では、地域経済を支える存在は年金や生活保護などの政府扶助が主体とならざるを得ず、地域の文化を継承する次世代の住民もそう多くは見当たらないのが現状です。

 問題は、例えば岸田政権が原案のまま1兆円ほどの能登半島地震の復興・再建プランを可決したとして、このような放っておいたらなくなる集落までも復興の対象とするべきなのかという議論が出てくる点です。

 ここには、憲法第22条で国民に認められた居住、移転・職業選択の自由と、同25条のすべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利、および同13条で定められた国民の幸福追求権・生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利との整合性を考えなければなりません。

 理想論で言うならば、国民は住みたいところに住み、地域には長年にわたって育まれてきた土着の文化もありますので、そこに住む人がいる限り、可能な限り支援するべきだという議論はどうしても出ます。これはこれで正論と言えます。

 他方で、国の財源に限りがある中で、そもそも人口が減少し、将来にわたって地域や集落の維持が困難である地域の復興にどこまで国費を投入するのかという点は議論が避けられない問題でもあります。

 飯田泰之さんの指摘にもあるように、誤解が多く、総論賛成各論反対になりやすい論点であり、かつ画一的な被災集落の解体と移住を強要するものと誤解されてしまっている面もありますが、単に地域の人口を強制的に剥がしてきて都市部に集住させるという政策というわけではない点は、議論の前提として理解しておかなければなりません。

 国土交通省や総務省などが検討を進めているコンパクトシティなど、自治体ごとに策定する都市政策と、これらの政策は別物であることも理解しておく必要があります。

 「今回の復興では、人口が減り、地震前から維持が困難になっていた集落では、復興ではなく移住を選択する事をきちんと組織的に行う(促す)べきだ」と米山隆一さん問題提起したように、国民の権利選択の結果、勤労人口が過疎地域での就業を放棄して都市部に移り、猛烈な人口減少と高齢化が進んでいるのは間違いのないことです。持続可能性が絶望的な地域や集落に公費を入れて復興させる必要があるのかということは、議論しなければならない点の一つです。

 もう一つは、これらの人口減少の事実をきちんと受け止めたうえで、国家が政策として人口減少による日本社会全体の縮退をどうコントロールするのかという話にもつながっていきます。


■ 能登半島地震が問う冷徹な現実

 熊本地震においても、復興不能な人口規模の地域は事実上の集落の解体が行われました。7700億円とも言われた復興予算も、それなりの割合が未執行(計画には盛り込まれたが、現地でのマンパワーや高齢化した住民のニーズに見合わず計画実施が見送られた)になっています。

 さらに、地域の産業をどう復興させるかという論点もあります。

 例えば、輪島市は日本でも大変重要な文化財でもある輪島塗の産地ですが、これらの産業を維持するために、政府が被災した事業者などに対して特融の制度を定めても、借り手の側がそのまま廃業してしまうリスクさえも存在します。

 制度融資をいくら拡充しても、すでに借り手である事業者が高齢化している以上、仮に無利子無担保であったとしても、3年ないし5年の融資期間の先に自身で事業を担っているのかという点で確かなことは何も言えないからです。

 結果的に、40代、50代の事業者のみが挙手をする形にならざるを得ず、文化を文字通り支えている70代以上の職人は廃業するか、他の事業者のもとで働くしかなくなるでしょう。

 そもそも、輪島市や富山県氷見市も含め、日本海側の各地域に一定の人口が維持されてきた背景には、日本海側が長く我が国の海運の大動脈であり続けたという歴史的背景があります。

 ただ、能登半島北端も、日本海側の海運の衰退とともに繁栄の理由を失って産業的な優位性を失い、結果として過疎化が進みました。いくら輪島塗が日本を代表する文化的事業であっても担い手を失いかねない現実に直面するわけです。

 日本の“名宰相”とも謳われる田中角栄は、「山間部の60戸しかない集落では、病人が出たら戸板で運ばなければならない。そういう人たちのために12億円かけてでもトンネルをつくることが政治の役割だ」と喝破しました。

 ただ、2C1Pacific氏も記載しているように、1億人の人口のうち高齢化率が1割程度であった70年代の日本と現在とでは、住民が求める生活の水準がそもそも異なります。

 地域の電化率だけでなく、上水道やネットインフラはもちろんのこと、救急や産科小児科を持つ相応に設備のある基幹病院や子どもでも通うことのできる学校など、子育て環境がなければ地域で子どもを産み育てることができません。

 その病院も含めた子育て環境も、厳しくなる人口減少と財政の問題から、石川県では奥能登の医療集約を進めようとしていたことは冒頭に述べた通りです。住民が安心して子どもを産める環境でなければ地域人口など増えるはずもないのですが、人口全体が減少してしまうとこれらの都市機能を維持することができません。

 子育て世帯は勤労世帯ですので、結果的に子育て環境とよりよい仕事を求めて都市部に出ていくのもまた当然の帰結です。

 このように、我が国の人口減少は画一的に起きていることではありません。子育てが可能で、地域で次の世代を育てることのできる地域以外は人口ボリュームを維持できず、生活機能と職場が失われ、衰退に拍車がかかるということです。

 そういう地域に残るのは、どこに暮らしていても一定額の支給が得られる年金生活者と生活保護世帯、および市役所町役場などの公的部門だけです。

 そういう生産性を失った地域が、今回の大地震のような激甚災害を受けて損害を被ったとして、その復興で災害の前の生活を取り戻すような公費を投じることが、どこまでならば妥当なのか、冷静に議論しなければならないでしょう。


■ これからの日本に必要な衰退のコントロール

 必要なことは、どこまで縮小すれば、住民の努力である程度の自活ができるレベルまで地域が集約できるのかというブループリントをつくることです。

 これらの災害対応で岸田政権をが打ち出す1兆円あまりの復興費用は、とりもなおさず税金であり、地域医療や年金という観点からすれば社会保障費そのものです。

 災害復興が進んでも、地元の事業者が潰れて働き口がなくなれば、必然的に年金のみが収入の生活になる高齢者や生活保護を受けざるを得ない世帯が増えます。これらの財源は、日本の勤労世帯の社会保険料です。

 地元の採算・生産性が回復する「良い復興」が進まなければ、国民の社会保険料負担はますます重くなるし、発行される国債が一層多額になり納税者負担となることを忘れてはいけません。

 勤労世帯の社会保険料負担が重くなり、重税感が国民に広まっているにもかかわらず、こういった生産性が乏しく、自活が難しい地域の復興予算を充分に出すべきだという話が併存してしまうのは、国民の適正負担の観点から見ても公平性を欠くうえに、そもそも矛盾しています。

 地震のような、誰のせいでもない災害に遭ってしまうことは、地域住民の責任ではなく仕方ないことなのだとしても、その復興がある程度、自力でできない限り、いつまでも公費で地域丸ごと被災者を助け続けることはできないということです。

 もちろん、このような議論が行き過ぎれば人口減少の地方は姥捨て山なのかとか、今後激増が予想される未婚で貧困の高齢者に対する安易な安楽死議論のような極論もどんどん出てきてしまうことでしょう。

 必要なことは、先にも述べた通り、人口減少で地方社会・経済の衰退は誰かが何をしようとも押しとどめることはできないのだから、せめて勤労世帯も高齢者も、あるいは都市生活者も地方在住も共倒れにならないように、衰退をきちんとコントロールしながら最善の経済縮小・撤退戦を日本経済は政策的に図っていかなければならないということに他なりません。

 【関連リンク】
◎【数千億円の予算】能登半島地震の「復興」が熊本地震より難しい理由について……(YouTube)

 おそらくは、輪島市を中心に能登半島北部は自活できない自治体を集約して自治体再編をしましょうという議論も出ることでしょう。公費の投入も必要だ、復興も頑張ろうという話になることは間違いありません。

 しかしながら、何をどこまで救うのか、これらの災害復興をトリガーにして、時計の針がもっと進むことになってしまう地方救済のモデルケースとして、ゆくゆくは日本全国にある、5万人に満たない地域の再々編も想定しておかなければ、何か地震や豪雨のような激甚災害があるごとに希少な国民の資源が投入され続けることになりかねません。

 「何が、どこまで救済されるべきか」という線引きは、人口減少下の社会保障や災害復興政策では非常に重要になると思いますし、発生が予見される南海トラフ地震で、首都圏や東海地方などが重大な災害に巻き込まれた場合にも参考にしておく必要があろうかと感じます。

 山本 一郎(やまもと・いちろう)
個人投資家、作家
1973年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒。東京大学政策ビジョン研究センター客員研究員を経て、情報法制研究所・事務局次長、上席研究員として、社会調査や統計分析にも従事。
 

 

 

現在ではあまり記憶されていないが、かつて「日本列島改造論」をぶちあげた田中角栄は、郷里・新潟の過疎の村に12億円の費用をかけてトンネルを作り、猛烈な批判を浴びた。
 
そのとき、角栄はこう語ったという。 「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはないっ。
 
親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。 トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるかっ」 
 
当時の角栄は何を想っていたのか。
「週刊現代」2016年10月29日号に掲載された、ジャーナリスト・松田賢弥氏(故人)の取材・執筆による、知られざる「角さんの素顔」を、この機にお伝えしたい。なお、人物の年齢や肩書は2016年当時のものとする。
 
 ■「必ずまた来る」 
暑い日だった。車から降りた田中角栄元首相は背広も脱がず、差し出された冷えたキュウリに味噌をつけて頬張ると、急ごしらえの演台に乗りマイクを握った。 「トンネルが完成したら必ずまた来ると約束した。それが果たせてうれしいっ」 1983年7月27日、角栄は新潟県小千谷市塩谷に作られたばかりの「塩谷トンネル」の坑口に立っていた。
 
そこは、後に2004年の中越地震で大きな被害を受ける山古志村から、険しい山道をくねくねと登った山中である。 この日、自身が逮捕されたロッキード事件の一審判決が3ヵ月後に控えていたこともあって、トンネルの落成式に臨む角栄を追ったマスコミの車が、山道に1kmも数珠つなぎで続いた。 
 
「自分の家が一番いい」
 塩谷は過疎の集落だ。冬には積雪3~5mもの豪雪に見舞われる。唯一の産業である錦鯉の養殖池に囲まれ、約60戸の家々が斜面にへばりつくように建っていた。
 
村と小千谷の町との間には、険しい雨乞山が立ちはだかる。暮らしてゆくために、男たちは出稼ぎに出るしかなかった。トンネルは生活のための悲願だった。 
 
完成したトンネルは全長513m、幅員7m、総事業費は12億円。ロッキード事件の翌年の1977年に起工したこともあって、「たった60戸に12億円の投資か」、「カネを各戸に2000万円ずつ分けて引っ越してもらったほうがいいのではないか」という批判が噴出した。
 
しかし、角栄は持ち前の剛腕でトンネルの建設を主導した。 実は、角栄は逮捕直後の総選挙、いわゆる「ロッキード選挙」のとき、この塩谷を訪れていた。
 
 「もう少しだ。トンネルができて無雪道路になれば、自分の家が一番いい。村に工場を作って、そこでみんな働けるんだ」 もう少しだ――。 
 
トンネルから50mほど離れた山腹に、小さな隧道(ずいどう)が穿たれている。その入り口に角栄はたたずみ、奥の暗闇を一人じっと睨んでいたという。 
 
遺族の手をしかと握って 塩谷の人々は、それまでこの自力で掘りぬいた手掘り隧道を頼りに暮らしていた。犠牲者も出るほどの難事業だったことを角栄は知っていた。
 
 1938年から、塩谷の集落の男たちはツルハシで雨乞山の岩を砕き始めた。人の手で掘り進められるのは1日にせいぜい50cm。5年かけ、長さ500m、幅わずか1.5mの隧道が貫通したのは終戦を前にした1943年のことだった。
 
 1942年冬に落盤事故があった。大雪のさなか、ツルハシをふるっていた友野源次郎の頭上に岩が落ち、首の骨を砕いた。享年38。源次郎の墓碑は今も塩谷トンネルの坑口にあり、その隣には「明窓之碑 越山田中角栄書」と刻まれた石碑が並んでいる。
 
 「おおい、友野の倅(せがれ)はいるか」 角栄は、手掘り隧道の犠牲になった源次郎の息子・広徳(現在83歳)のことをいつも気にかけていた。
 
落成式の挨拶の最中、演台の上からこう叫んだ角栄は、進み出た広徳の手をしかと握りしめた。 広徳は40歳ごろから塩谷越山会の幹事長を任されていた。
 
夜汽車に揺られて何度も上京し、目白の田中邸を詣で、トンネルの実現を角栄に陳情していた。 どんな田舎も全部歩いた 角栄と塩谷の縁は、角栄が初めて総選挙に出馬した1946年3月にさかのぼる。 
 
雪の中、塩谷集落の隣、東山地区にある南荷頃小学校で27歳の角栄は演説会を開いたのだ。多くの住民が、雪道を歩いてこれを聴きに行った。
 
無名の角栄は、この頃すでにあの有名な言葉をまくしたてていたという。 「谷川岳を切り崩すっ。そうすれば新潟に雪は降らなくなる。崩した土で佐渡海峡を埋めるんだ。雪は関東にも平等に降るようになる」 気宇壮大な演説は聴衆に強い印象を残したものの、支持の輪は広がらず、角栄は落選する。
 
しかしこの時の敗北が、のちの角栄を作った。 元新潟県議で、小千谷市に住む広井忠男はこう言う。

「田中さんはまだ村長も町内会長も案内してくれない無名のときに、地下足袋にゲートル巻きで(地元の田舎を)全部歩いている。
 
だから、後で塩谷の人が陳情に行くと『おお、小千谷の塩谷か。あの道路が大きく曲がっていて、杉が3本生えている、あの先だな』と覚えているんです」 
 
狭く暗い隧道に日々の生活を頼っていた塩谷の住民たちは、トンネルを整備してほしいと、あの「目白御殿」を陳情に訪れる。
 
そこで角栄は何を語ったのか。そしてロッキード事件の渦中、なぜ角栄は「票にならない」はずの塩谷に足を運んだのか……。 
 
その真相を【「おばあちゃん、ありがとなっ」田中角栄が「北陸の過疎の村」に「12億円のトンネル」を作った日、村人に語った「政治のほんとうの役割」】で続いてお伝えする。 
 
 

 

2024.01.13 
「おばあちゃん、ありがとなっ」田中角栄が「北陸の過疎の村」に「12億円のトンネル」を作った日、村人に語った「政治のほんとうの役割」 
松田 賢弥
 
ベルを鳴らし、指示を出した 1954年、塩谷は小千谷市と合併し、隧道も県道に格上げされた。だが県道とは名ばかりで、裸電球のぶら下がる隧道には地下水が音を立てて漏れ出し、落盤で通行止めになることも頻繁だった。 
 
一方、この頃から角栄は破竹の出世を遂げる。郵政大臣(1957年)、大蔵大臣(1962年)、自民党幹事長(1965年)、そして1972年には自民党総裁に選ばれ、総理大臣となった。
 
 目白の角栄宅に塩谷の住民が陳情に行く際には、小千谷駅から夜行列車に乗り、上野駅に着くのが午前4時ごろだ。
 
「深夜営業の喫茶店に入る金ももったいないから、山手線に何周も乗って時間を潰し、朝7時半に目白で降りるんです。手土産といっても、餅や鯉を提げていくくらいでした。
 
 当時、マスコミには『田中邸の庭の池の鯉は1匹数百万円』なんて書かれていましたが、デタラメですよ。小千谷や山古志の人が持って行った安い鯉が多かったんです」(前出・広井氏) 
 
何度も目白を訪れる塩谷の人々を、そのたびに「おう、おう」と言って出迎えた角栄は、こう訝しむこともあったという。 「隧道を改良してほしい? とっくに終わったもんだと思っていたよ。まだそんなこと言っているのか」 角栄は机上のベルを鳴らし、政務担当秘書の山田泰司を呼んですぐに指示を出した。
 
「おばあちゃん、ありがとなっ」
 直後、角栄はわずか2年で総理を辞し、1976年にロッキード事件で逮捕される。「金権政治家」という謗(そし)りを一身に受けたその時に、角栄は塩谷トンネルの完成にこだわるようになったのである。
 
 同年のロッキード選挙。当時、角栄の番記者を務めていた現・新潟日報社長の小田敏三は、長岡市内の旅館で目にした角栄のようすに驚いたという。
 
 「角さんは必死だった。毎日夕方に宿に戻ると、黄ばんだわら半紙に、辻説法をした場所、人数、どんなヤジが飛んだかまで書き出すんです。『ロッキードはどうした!』と言われた、とかね。 
 
その時、見ると角さんの手が傷だらけで、血が出ているんですよ。握手のとき、ご婦人方の指輪が引っかかるんですね。それほど政治家になって最大の窮地、議員バッジを失うかどうかという瀬戸際だった」 
 
小千谷の村々をまわっているときには、昼食をとった直後でも、地元のお年寄りが差し入れを持って来ると、すぐさま平らげてこう言った。
 
 「おっ、(郷土料理の)鮭の頭と大根の煮物か。うん、うまいなっ。うちの女房は東京モンだから、何回言ってもこの味が出ないんだ。おばあちゃん、ありがとなっ」
 
天才的な選挙のセンスを誇った角栄だが、この時ばかりは落選の危機を相当に意識していた。しかし前述したように、そんな非常時に角栄は、塩谷の小さな隧道まで足を伸ばして「もう少しだ」と住民に語ったのである。

「普通なら、あんな小さな集落に行っている場合じゃないんですよ。でも、誰かが案内したわけでもないのに、角さんは一人でスッと隧道の入り口に行って、奥をジーッと見ていた」(前出・小田氏)

角栄は、隧道の暗闇に何を見ていたのだろうか。

「同じ日本人で、こんな不平等があるかっ」
角栄が塩谷トンネルの落成式に設定した1983年7月27日は、ロッキード事件で自身が逮捕されてからちょうど7年目にあたる日だった。

その日、角栄が語った言葉を、今も塩谷の人々は忘れられないという。

「このトンネルについて、60戸の集落に12億円かけるのはおかしいとの批判があるが、そんなことはないっ。親、子、孫が故郷を捨てず、住むことができるようにするのが政治の基本なんだ。だから私はこのトンネルを造ったんだ。

トンネルがなかったら、子供が病気になっても満足に病院にかかれない。冬場に病人が出たら、戸板一枚で雪道を運んで行かなきゃならん。同じ日本人で、同じ保険料を払っているのに、こんな不平等があるかっ」

この演説には、角栄政治の原点があらわれているようにも思える。

よく知られた角栄の言葉に「政治は生活だ」というものがある。角栄は塩谷という辺地で、「誰のために政治家はいるのか」ということを問い直そうとしたのではないか。だからこそ、塩谷トンネルにこだわり、その落成式を、自身の逮捕と同じ日に行ったのだろう。

「塩谷は60戸しかなかったから、1戸4票としても240票にしかならない。見附市や三条市のような町場にドーンと投資したほうが、よっぽど票になるわけですよ。

それ一つ考えてみても、当時のマスコミが書いた『角栄は自分の選挙のために12億円の公共事業をやった』という批判はおかしいんだ」(前出・広井氏)


塩谷の昔からの住人はこう言う。
「トンネルがなかったら、私らは生きていかれんかった。あの時は『田んぼの畔(あぜ)まで舗装するつもりか』と笑われたよ。でもみんな必死だったんだ。角さんは貧乏人に優しい政治をしてくれた」

中越地震の後、小千谷市街の復興住宅に移った塩谷の主婦も語った。

「トンネルができる前は、子供が病気になったら熊の胆を飲ませるか、大人が総出で、雪の中を小千谷の病院まで運ばんくてはならんかった。ようやく病院に着いたと思ったら、事切れているのが普通さ。ひどいもんだった。角さんがそれを変えてくれたんだ」

「理屈じゃない。暮らしだ」
角栄を「金権政治家」と切り捨てることはたやすい。しかし、地元新潟の人々は口を揃えて、それだけで角栄を語り尽くすことはできない、と言う。

「角さんにとって、『金権政治家』のレッテルは屈辱だった。『金権政治家だったら、こんな田舎に来るか』というのが、あの日の角さんの正直な気持ちだったでしょう。

批判に対して、こうも言っていた。『大事なのは理屈じゃない。生まれ育ったところに帰って来られる。そこで暮らしていける。何が悪い。そうするのが政治家の役割だ』と」(前出・小田氏)

前出の友野広徳に、角栄は「トンネルで便利になっても、塩谷を出て行かんでくれ」と訴えていたという。「ふるさとは家族と一緒で、どんなにカネを積まれても離れられるもんじゃないよ」と言う友野は、その後も長年塩谷に暮らし続けた。

塩谷トンネルの落成から3ヵ月がたった1983年10月12日、角栄は東京地裁から懲役4年の一審判決を宣告される。落日を迎えた角栄にとって、まさに塩谷トンネルは「最後の大仕事」となった。

郷里新潟の貧しい人々に自分は何ができるのか。角栄は政治家人生の最後に、自らの原点に返ろうとしたのかもしれない。

それから約20年後の2004年10月23日に起きた中越地震で、塩谷では小学生3人が建物の下敷きになって亡くなった。トンネルが完成した後も減ることのなかった約60戸の小さな集落は、この地震を境に一気に縮小を始め、今は19戸を残すだけとなった。

「あと少しだ」と自分に言い聞かせるように語ったあの日の角栄が見たら、何を思うだろうか。(文中一部敬称略)

「週刊現代」2016年10月29日号より

まつだ・けんや/1954年岩手県生まれ。雑誌を中心に活動するジャーナリスト。2012年、「週刊文春」で小沢一郎氏の妻の「離縁状」をスクープ。著書に『影の権力者 内閣官房長官菅義偉』『小沢一郎 淋しき家族の肖像』など。2021年10月に死去。
 
 
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