思い出を振り返る暇もカウントダウンに怯える隙も無いくらい忙しかった今週…。
地元駅で降りた頃には駅の階段に死の恐怖を感じるほど眠くて(半分くらいは落ちてもいいなと思っている)家に辿り着いたら気絶、明け方にむくりと起きて出勤準備、ループ。
仕事が詰まっていると頭の中にそれしかなくなってしまう性質は幸いだったのか否か。
明日が何の日か、なんて明日が終わっても解らない気がする。

9GOATSの始動を知った時(lynch.ファンの友人からオフィのURLが送られてきた)信じられない気持ちでひとり涙を流した。
GULLETの存在を終わりの後に知った自分は、死ぬ前に“漾さんっていう人”の生歌を聴きたいと願っていて、いつかそんな日が来ることを全く信じてはいなかったけれど願っていて、それは叶って、一度だけと願っていたのに何度も何度も聴くことができて、夢が叶うこともあるんだと知った。それで十分かもしれない。

嘆いたり哀しんだりするにはそれ相応の愛が必要だと思っているから、その点では私が何かを語る資格は無いです。
全力で愛して追いかけていた人と同列には並べなくなった。
せめて、場の空気に流されて泣くっていう自分的に最悪な展開は避けたい。
何を思ったとしても自分の本当の気持ちであればいい。
受け取ったものの重さは理解できるけど私には飲み込めなくて持て余して、焦って同調しようとして失敗して思考停止に陥って、結局最初に受け取ったはずのものも見失っていた。
今となっては勿体無いことをしたから、最後くらいはちゃんと。

解散ライブは約9年ぶり、Laputaの渋公以来です。
終演後に美麗コスさんの胸お借りして号泣してたな、と思い出すと若かったと思うけど(笑)きっと「好きだったものを観れなくなる」ということがどういうことなのかを知らなかったから、明日からの自分がどんな気持ちになるのかわからなくて、とんでもない寂しさに襲われるんじゃないか耐え切れないんじゃないかって怖さが半分で、自分のために泣いていたと思う。
でも観れなくなっても好きな曲は好きな曲のまま残っているし、ライブ空間の熱や感情をリアルには思い出せなくなっても、観念としては何度でも思い起こせる。

音楽そのものには形がなくて、言葉同様に不可逆性と無常性を備えているものだけど、やはり言葉と似て発信者の手を離れて場所と時間に縛られずに伝わっていくもので。
与えられた命題は一生モノと心得ている。
特に9GOATSはそういうバンドだと思うから。


雪の予報に慄いている。

本業は月末月初の処理が済んでだいぶ落ち着いたんだけど、大学生向けの就職セミナーの運営なんかもやっている会社なのでこの時期はそっちの手伝いが忙しめ。
運悪く明日はセミナー予定が詰まっている日で、雪で電車止まったら電話が鳴りっぱなしになるだろうから、1時間早く出勤しろと指令が出ました笑
採る側も戦ってます、という話。

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死んだ魚の夢をよく見るんだけど、今朝のは少し毛色が違った。

家族と遊園地と水族館が一緒になったような場所に遊びに行っていて、妹と一緒に大きな円柱型の水槽を見ていた。
何故かそんな水槽が屋外にあって、深海魚も熱帯魚も、何故かペンギンまで同じところをくるくる周りながら泳いでるというあり得なさが夢。
ふと陽が翳ったので斜め後ろを振り返ったら、フリーフォール?みたいに高さのある遊具が折れてゆっくりと倒れてきたところで、それが水槽に直撃した。
人が死にそうなところだけど人が死んでいた記憶は無いのが夢。
水槽は割れて、大量の水と一緒に中の魚が吹き出して、ばらばらとアスファルトの上に散らばって、すぐに動かなくなった。
吹き出した水で虹ができていたのが異様だった。
何故か客は落ち着いていて、みんなしゃがみこんで素手で死骸を拾ってはバケツに入れていく。
私は号泣していて、さっきまで家族が近くに居たのに「気持ち悪い」と言って帰ってしまっていて、別に義務ではないのに魚を拾い続けていた。
落ちている魚を辿りながら歩いていくと、どうやら一番遠くに飛ばされたのはペンギンだったようで、三体が並んで、ぬいぐるみみたいに愛らしく動かなくなっていた。
それを抱いてまた泣いた。


生き物が好きというわけではない(嫌いでもない。なんていうか好き嫌いの対象にならない)のですがなかなかショッキングな光景でした…。
魚って生きてても死んでても見た目があまり変わらない気がするんだけど、それでも死ぬ瞬間はわかって、見ていて指先から力が抜ける。

自分の深層心理なんて知りたくないので、夢占いとかしなくていいですよ。笑


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