門前のビラと、心の自由 | 古稀おじさん人生の並木道

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門前のビラと、心の自由

 

 

昭和から平成へと移り変わる時代、会社の門前は、
単なる出入り口以上の熱を帯びていた。
8時始まりの始業前、早足で職場へ向かう従業員の波。
その傍らで、夜勤明けの腕を休める間もなく、ガリ版刷りのビラを配る人々がいた。
​内容は、勤務体制の改善要望や、働く者の権利を訴えるもの。

「赤旗 緊急版」と称されるその紙片を、会社の労務部は厳しい目で見守り、
配るもの者、受け取った者をチェックしていた。
​私は、それをごく自然に受け取っていた。

内容にすべて賛同していたわけではない。言い過ぎだと思う部分もあった。
だが、そこに何が書かれているのか。彼らが何を訴えているのか。
それを自分自身の目で確かめ、自分の頭で判断することは、
一人の社会人として当たり前の「知的な権利」だと思っていたからだ。
​しかし、やはり「彼」は、その領域にまで踏み込んできた。

​「おい、鈴木君。お前、あの新聞を受け取っているらしいな。そんなことしたらいかん」
​その忠告を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。

これまで、バレー部の先輩として、職場の上司として、多くの理不尽を飲み込んできた。
だが、私が「何を読み、何を考えるか」という心の自由にまで指図を受けるいわれはない。
​「私は受け取ります。内容は自分で判断します。受け取るなというのは、おかしいでしょう」
​私は、かつてないほど強めに抵抗した。

「そんなに読みたいなら、継続購読して内容を精査したらどうだ」
とまで言ってきた。
「そのつもりはありません。勝手に判断します。ガリ版の受け取りが何がいけないのか、
論理的に説明してください」
私も​止まらなかった。


それは単にビラ一枚の問題ではなく、私の「個」としての尊厳を守るための戦いだったのだ。
​彼は、部下が「色」に染まり、自分の管理から外れることを恐れていたのかもしれない。
だが、真の信頼関係とは、相手を型にはめることではなく、

異なる考えを持つ個人の「判断」を尊重することから始まるのではないだろうか。
​ビラ一枚を受け取る勇気。
それは、組織という大きな渦の中でも、自分自身の「目」と「心」を曇らせないという、
私なりの小さな、しかし譲れない抵抗だった。
​今、あの門前を思い出す。

どんなに時代が変わっても、自分の信じる「正解」は、誰かに与えられるものではなく、
自分自身の手で選び取るものでありたい。

(注)思想を語るものではありません。