本日のコンサート(1ヶ月前)は
チャイコフスキーの悲愴、人生初の生演奏を聴いた。
とんでもない名曲だが、4楽章、最後は曲名通り、
どん底の失意のなか、本当に死んでしまうかのように
音も消え入るように終る。
チャイコフスキー自身も
この曲の初演後、直ぐに死んでしまった。
観客は何を期待して来るのだろう。
と思う程の曲なのだ。まさしく悲愴。
しかし、芸術はそんな事を怒とうする。
この曲は、チャイコフスキーの内面から出てきた強烈な感情を
表現しているのだろうと思う。その深い感情と無限の悲愴感が、
聴衆の心にも共鳴し、感動を呼び起こすのでしょう。
深い感情のなか、清く正しく
悔いのない人生を送るように
想わせる曲でもある。
(反面教師的な考察です)
私は1楽章の大音量、悲劇の感情大爆発
の怒涛の展開部が好きだ。
(悲劇的感情を好きと言ってごめんなさい)
よく考えたら、ブラームスも
チャイコフスキーもネクラ(根が暗い)な
作曲家だな。。
この曲は、本当に死んでしまったと
確信したように、音が消え入ったあとも
指揮者のタクトが完全に
降りるまで、拍手をしてはならない。。
演奏が終わった後もその深い感情に浸り、
その空気感を壊さずに尊重するための作法なのだと思う。