我が家には2匹のミニチュア・ダックスフンドがいる。

もう老犬だ。

庭のログハウスに住んでいる、まさにご隠居状態だけど、やはり毎日散歩に行かなければ、些細な気配でも吠え求め、近所迷惑になりかねない。


健康のためと、私が天候の良い日は毎朝、といっても5,6分程度の散歩を担当している。


本日2022年度最後となり、2年間やり遂げた事となった。


冬も夏も、それなりに苦ではなかった。

やはり朝の空気を呼吸しながらは、気持ち悪いわけがない。

そして半強制、これがポイントだ。


犬のペースに歩幅、歩くリズムを合わせねばならないし、ゴミ出しに出てこられるご近所さんや、車の通行に気をつけながら、同時に自分も他人の目を気にしながら、気づけば…


朝の気だるさを、ある種脳が騙されて、身体が戦闘モードになるのだ。

背筋がシャンとし、例の如く、気分は乗馬モードのオスカルになっている。


そして、散歩を終えリードをかけ、泥を落とすために洗面器で素手で前足後ろ足と、ログハウスで洗う我が姿を


さながら馬の蹄を整え、毛並みを整え手綱を収めるアンドレのように、自身を写し重ねるのである。


やはり朝から頭がベルサイユな私なのであった。。

別れと始まりの季節だ。


さて、とは言えどうするもなにもない。



この日を迎え、そんなこと言っていられるのか。


12年前の3月11日…


この国で歴史的にも屈指の大きな出来事があった。

干支一周にしてようやく私も冷静に自分の人生に対して考える時間と余裕が与えられた。



齢40にしてやたらと思い出されるのは特になぜか14歳の頃。。

おそらく今あるこの感受性の全てがベースとなった年齢なのだ。


やはり随所に視聴覚的にその当時の感覚にフラッシュ・バックもしくはトリップし、浸ることがよくあり、



前回に触れた音楽でも、ペニシリンと言うビジュアル系ロック・バンド以外に、きらびやかな衣装と化粧で長髪を振り乱し激しい音楽を演奏するいくつかの集団に心惹かれていた。

ちなみに妻はマリス・ミゼルと言うバンドのボーカルであったGACKTの海外まで追っかけをするファンである(今は…どうだろうか)


私も中世ヨーロッパ雰囲気とするバロック様式の芸術などは大変好みの部類だ。

まさに1996年当時、ファイアー・エムブレムと言うスーパーファミコンのゲームにはまっていた。

とにかくグラフィックが美しかった。
登場キャラクターも色鮮やかで、白馬に跨った騎士たちは誇り高き闘志を燃やし、美しく戦場に咲き乱れ散っていった。


靡く長髪、鋭い眼光、翻すロング・コート…


そういったものが絶対的に美しいもの、という認識が固定化されたのが14,5歳の時なのだ。




音楽シーンも、ジャニーズなどに負けず劣らず、ロックバンドには勢いがあった。
ペニシリンのボーカル・HAKUEI、Gackt、エックスのYOSHIKI、ラルクのhyde、バクチクの櫻井氏…

今も魔性の美しさを保っており、そのプロ根性にも脱帽だ。


しかしキャラクターやボーカルとしての声はそれぞれ特徴立ちしすぎてこの手の楽曲が一部の層からは毛嫌いされるのも無理はない。


10数年前に来日したアメリカのモンスター級(B'zなど比ではない)バンド、ガンズ・アンド・ローゼズの前座を担って、スタジアムにひしめくオーディエンスから(同じ日本国民であるのに!)心無い罵声を浴びせられたムックというバンドに私は多大なる敬意を表したい!

彼らとしてはもう既に伝説の話のネタにしてるらしいし、リスペクトしてるガンズと共演したことは誇りに思ってることであろう。


胸糞悪い問題は…もし今の時代であったなら、炎上もしくはおそらく逆に世界中から叩かれるだろう非常に盲目で心無いことをした、本邦のガンズ・アンド・ローゼズのフォロワーの精神的な悪の部分だ。


見事この名前からして全てが美しいバンド、なのに!

イメージをファン自らが総出で汚してる行為だったと私は思う。


ムックの音楽やビジュアル系がどうこうでは無く、ブーイングというBAD評価、その器量の狭さに悲しく、ドリンクかなんかのゴミなども実際投げ込まれたというその醜い反応行動にただ悲しくなり、怪訝な顔をせずにはいられない。

実際ムックではなくZIGGYなどに委任すべきだと個人的には思うし、2017年来日時は、ベビーメタルや狼の被り物の人達が前座だったが、私など興味ないから観なかった。


そう、観なければいい。


話はムック前座時に戻るが(2006年だったか、ギターのスラッシュは不在で私は行く気がなかった)
先輩の話曰く
「ガンズは神聖な、本物の、ロックなんだ。
は?ビジュアル系の奴らがしゃしゃり出るな。」
と言わんばかりの歓迎ぶりだったそうだ。


なんと愚かな、恥ずべきことを…


同じ日本人だぞ?

同じロックバンドだぞ?

それでワールドカップやオリンピックになると、
「ニッポン!ニッポン!」とはしゃいで

ハロウィンになったら奇抜な衣装とメイクを施し都市を練り歩くのだろう。。


因みにそういう方々は、自身も精神不安定でメンバー確執、作品リリース延期は当たり前、体もすっかり太ってしまったアクセル・ローズすらも劣化ではなく、進化として受け取るのだろう。

さぞ慈悲深い事だ。

(私としては美しい薔薇は美しく散るか、せめてフリーズドライしてもらいたい)

ポイズンのブレット・マイケルズやデヴィッド・カヴァディール、デフ・レパードのボーカルなぞ、今でもイケているし、

全盛期を終えて、アルバム・ジャケットにメンバー自らの頭部を豚に据え置き、パロディ精神溢れるモトリー・クルーの方が本当の等身大のロックなんじゃないかとすら思ってる。。



しかし、ガンズ・アンド・ローゼズ。その名もさることながら、メンバーもファンも、銃口と引き金、真紅の棘と茨の呪縛から逃れられないのか。




「薔薇は美しく散る」をカバーしており、さぞベルばらのような世界観を描いてるかと思い、ラレーヌというバンドを試聴したが、私はボーカルの声に拒否反応を起こした。

これはもう仕方ないのだ。同じくラファエルも然りだ。


しかしもはや、名前からしてハードルを上げてるVersaillesは、私のストライク・ゾーンを貫いた。10年前くらいから存在は知っていた。
ボーカルのKAMIJOはGacktのような低音ボイスで、ソロ・アルバムのタイトルに「OSCAR(オスカル)」と名打つほどの傾倒された世界観と、イングヴェイ・マルムスティーンに引けをとらない超絶技巧を備えるギタリストのHIZAKIらバック・メンバーのメタルなサウンド、更に重厚な聖歌隊コーラスなどアレンジが堪らなかった!

Versaillesのベスト盤を耳に、三島由紀夫を読みながら電車通勤をし、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェになりきり、ヴィドフランスでコーヒーを飲みながら、私は思わずKAMIJO氏のブログをフォローしたのだった。

我が人生において、メンターという存在が見つけられるという事は稀有である。


その存在の、その価値にその言葉に、人生の舵をとらせている、と言ったら大袈裟だろうか。


少なくとも私には自我というものがここ最近爆発的に顕著になったと思われたが、所詮は他者にインスパイアされただけに相違無い。


尾崎豊が、オスカル・フランソワが、そして「三島由紀夫」が。



いまでは映画監督としても世界に名を成している北野武率いるプロダクションの芸人たちが、言論と報道の自由の名の下に、下世話話に群がる大衆相手に儲ける雑誌編集社を襲撃した事件から40年経過したそうだ。



歴史上の革命というものも、根本はそれと変わらないのではないか。

血を流すことは即ち、ある種自然の、熱き血潮の噴出に他ならないことなのでは。


1970年、自衛隊駐屯地での1人の大作家の自決により、たとえ世の中は変わらなかったとしても、その魂はメンターとして後世にフォローの連鎖を止まずにはいられまい。


「仮面の告白」は、はっきり言ってよく分からない。。

等身大の平岡公威が、生と死をありったけの活字の羅列という手段で、

抽象的に、またはリアルに、、


やはり(私は芸術的知識が無く、どういうものが〜派であり…という事は全く無知であるため、このような表現しかできない)

…耽美だ。


ヨーロッパの絵画や彫刻などの壮厳さが宗教的観念をもって思い描かれ、重厚なオーケストレーションがバックグラウンドに鳴り響くこともしばしばだ。


公威は死を渇望していた。しかし肺病で徴兵されなかった!しかも戦争は終わった!戦いもせず敗けた?


もう一度、闘いの場として選んだ東大安田講堂での演説は、目が血走った共産派に睨まれる中、さぞやゾクゾクしたことであろう!


まさに生きている実感を得た事だろう!


マッスルな胸筋や上腕、鎖骨や腋窩に興奮することなぞ、その付随でしかないと思われる。



いやはや!ニヒルであり、アカデミックでもあり…


矛盾する両価性、まさにアンビバレントな文体は退屈ではないのだが、少し三島の自己満足なナルシズムも垣間見えた。

かと思えば随所で冷静な、アンビエントな視点になり自己欺瞞に陥るのはある種パターン化していたが、読み手の期待を裏切ることもありこれまたアンビバレンス。。


なーんだ、やっぱりそういうオイシイ機会があれば公ちゃんもやるじゃーん。。でも?


という風に…



「性」というテーマが印象的のようだが、昨今のLGBTの苦悩といったものより、字の如く「心で生きる」と包括的に含んでいた、平岡公威のコンプレックスを文豪「三島由紀夫」が描いた自伝である。


まだ園子との再会シーンだけどあと数ページで終幕する(ここで何かドンデン返しがあるのか?)



もう一度、読み返してみたい。


「金閣寺」と違い、登場人物が掴みづらい気がするし、複雑で抽象的な公威の心境を改めて追ってみたい。



反面、そんな国語のテストで点が取れるような読み方をするくらいなら、したくないという私の心も「アンビバレンス」を示している…