珈琲は小学六年生で味を覚えた。
因みに酒は翌年に覚えてしまうのだが。
もちろん、周囲への反抗期盛んな時期で、少しでも大人びたアピールであったにちがいない。
団塊世代と高度経済成長が生み出した広大な団地で、そのジュニアである我々はファミコンこそ出始めていたが家を出れば数分で友達と遊べた。
当時町内会の子ども主体のキャンプや秋祭りの会議に、小学生も高学年だけ参加していた。
私は一応、リーダーとして司会を担当していた。
集会所の近くにある自動販売機で周りがコカ・コーラやファンタを飲む中、私はジョージアのロング缶を得意げに買い、会議の前後、ビジネスマンの如く一服していた。
徐々にエメラルドマウンテンやヨーロピアンも嗜み出し、苦味を快感に昇華することに腐心した。
中学3年になると、高校受験を控えた時期で、早朝勉強法であった私に、亡き祖父がアドバイスしたのはついにブラックアイスコーヒーであった。
もちろん、加糖の1リットルの紙パックを母に頼んだのだが。
その力は絶大だった。
学習塾は行かず、通信講座の教材を駆使し、隣町の進学校への切符を手に入れた。
その堂々たる漆黒の蒸気機関車に意気揚々と乗り込んだ私は、永遠のいわば迷宮と思われるトンネルに入って行くのだ。。
アルバイトはどれも長続きせず、酒や遊びに使える銭は無かった。
女を知れる環境や興味はあったのにも関わらず、度胸や解消が無かった。
心の拠り所は、軽音楽部の根暗で真面目な友人と、その中学時代の川原という男と毎週音楽の夢を夜通し語り合うことが今も、まさに夢のように美しく思い出される。
川原は、カフェインかニコチンを常時摂取している、高校進学はせず、段ボールのライン工として時折作業着をまといタオルを頭に巻きながら、ベースを弾くような、プロレタリアであり、ロックだった。
彼もジョージアエメマンを愛していた。
「拓也、高校卒業したらバンドで部屋借りてよ、ハイエース乗ってツアー行こうぜ。」
もちろんこんな夢話は、現実の鉄壁の前に粉々にされる。
更に私は推薦を受け大学進学を選び、川原を落胆させてしまった。
そのかわり、高校3年の秋から時間が余り、自動車教習所に通う事になった。
マニュアル車の実技は何度か落ちてしまったが、筆記は毎回パーフェクトな結果を残した。
その時も教習所で愛飲していたのかジョージアエメマンだ。
暗黒色に拗らせてしまった私の高校生活は、音楽の夢、川原たちのおかげで琥珀色の珈琲のようなほろ苦い、記憶を強烈に刺激するものに今、至ったのだ。
自動車免許証は今、私の懐で輝くゴールドになり、過去も未来も明るく照らしてくれている。
珈琲はポリフェノール以上に私にとって、欠かせない栄養素であり、カフェイン以上に有効な精神安定薬なのだ。