誰かが、その毛布について訪ねた。
するとその毛布を抱えた人は、こう答えた。
「上の子や。」
誰も、何も言わなかった。
そして、他の店舗を見るために商店街を南下した。
2つ目の店舗はシャッターが閉まっていたので、中が見れなかったような気がする。ちょっと忘れたけど、この店舗も全壊だったので、閉店し、現在はプレハブを建てて商品の在庫置き場になっている。
3つ目、4つ目の店をチェックするために、さらに南下すると、「手伝って~、お父ちゃんが挟まってるねん。」という声が聞こえた。そして、すかさず誰かが「生きてるか?あかんか?」と聞いた。
「あかん・・・」
「そしたら、後や!!!」
その時に、何かを手伝ったか何だったか、忘れてしまった。
3店舗目と4店舗目は何とか持ちこたえたようで、現在はこの2店舗のみ営業を続けている。(5店舗目の六甲道店も後々大丈夫だったことがわかった。)一番下にある店のシャッターを閉めようとしていた時、あるおじさんが「布団カバーをくれ」と言ってきたのを覚えてる。おそらく、避難するのに必要だったんだろう。
近所に住んでいた、祖父母の無事も確認でき、一旦自宅に戻ることにした。
すると、私は見てないから記憶にないけど、地面に白いチョークでメッセージが書いてあったらしい。メッセージの主は、私の自宅を設計した、「柳川賢次氏 」(もしかすると、来たのは当時の現場監督だったかも)。特注のハメ殺しのガラスを、既に発注したとのメッセージだった。柳川氏は、自分の気に入ったクライアントとでないと、絶対に仕事を引き受けないという人で、私の中では尊敬する人のうちの一人。いつか家建てて欲しいなぁなんて夢を持っている。
それから、まず最初にしたことは、自宅裏で飼っていた金魚の水槽のチェック。絶対ダメだろうと思っていたけど、体の大きい子が数匹、地面の上でピクピクと動いていたので、救助した。
それからしばらくして、電気が復旧した。
まず、テレビをつけた。
「・・・何やこれ」
テレビには、横倒しになった、阪神高速が映し出されていた。
両親は、この日、揃って阪神高速で大阪方面へ向かう用事があったのだ。
それからテレビが写したものは、爆撃されたのかと思うほど、複数立ち上る煙だった。
周囲で火の手があがっていなかったので、テレビを見て初めて、地震=火事 という認識が生まれ、すぐに自宅の屋上へ上がった。そしたら、テレビで見た光景が広がってた。風がなかったのか、真っすぐ上にのぼる灰色の煙の帯がいくつも見えた。
それから、中途半端に割れたハメ殺しの窓が、余震で再び割れる危険があったため、父と一緒にかなづちで窓ガラスを叩き割った。それから、ガラスの代わりにダンボールをはめこみ、寒さをしのいだ。
夜になり、母はおにぎりを握り、車の中に避難していた隣の家の家族に届けた。
テレビは、全チャンネルで特番が組まれ、次から次へと被災地が映し出されて、死者の名前が読み上げられていく。
経営している5店舗の店には、家族以外の従業員が当時3人いた。
安否が気になるので、父と母は手分けをして探し、うち2人の安否はすぐに確認とれ、ホっと胸をなでおろしていた。安否の確認が取れないもう1人の従業員の名前は、高井さん。もう年齢は70歳?くらいで、母が赤ちゃんの頃から働いてくれていて、当然私が産まれたときから知ってるし、第3のおばあちゃんだったから、高井のおばちゃんと呼んでいた。
自宅まで行った両親によると、おばちゃんの家は自宅が全壊していたらしい。どっかに避難したらしいけど、どこの学校・体育館に避難しているか、近所の人は知らなかった。
確かこの日は、すごく不安な気持ちで、靴を履いたまま寝た気がする。