阪神大震災の記録(1) | でぃ~ごのひまつぶし■エキゾチック&スフィンクスと暮らす■

でぃ~ごのひまつぶし■エキゾチック&スフィンクスと暮らす■

鼻ぺちゃなブサカワ猫「エキゾチックショートヘア」と、毛がないシワシワの無毛猫「スフィンクス」と楽しく暮らしています。

ちょっと寝坊したけど、6時前に黙祷をした。
どこからか、鎮魂の鐘の音が、ゴーーンゴーーンとなってた。


今年も、「今日」がやってきた。
阪神大震災から14年。
当時、私は高校受験を控えた、中学3年生でした。


忘れちゃいけないって思いつつも、時とともに風化していってるのを感じる。例えば、多くの犠牲が出た神戸大学生の慰霊碑が学内にもあるけども、それがあることさえ知らない生徒が増えてきたとのニュースを目にしたり、復興の為にスタートした、ルミナリエを、ただのデートコースだとしか捉えていない観光客がいたり・・・。


それが決して悪いこととは否定はしないけど、震災を体験した自分自身は、絶対に忘れないでおこうと改めて感じ、そのためにも、あの日の詳細をここに残したいと思います。


長くなりますので、興味のある人のみ読んでください。


ただ、もう14年前になるし、記憶が欠落している部分もあったり、若干表現や時間の差があったりするので矛盾点があるかもしれないことをご了承ください。


下下下下下下下下下下下下


頭を南に、足を北に向けて、左側を向いて寝ていた私は、ありえない力で前後に揺さぶられる感覚で目が覚めた。どれくらい揺れが続いたのかは、ハッキリ覚えてないけど、とにかく、ただとにかく長かった気がする。


やっと揺れがおさまった瞬間、隣で寝ていた妹に、着ていたパジャマを掴まれたのを覚えてる。そして今度は、さきほどとは打って変わって、考えられないくらい静寂が続き、その静寂の中で、私が小学生の時に作ったオルゴールだけが鳴っていたのがとても不気味だった。


それから間もなく、両親が部屋に「大丈夫か?!」とやってきた。


そして、父は寝室がある3Fから1Fまで降り、家族の靴を取りに行ってくれた。その時、私は必需品だった眼鏡がどこにあるのかと意外に冷静なことを考えてた。そして、父が戻ってきたとき、「玄関が開かないから、裏口から出なあかん。」と言った。


外に出ると、近所の人も出てきていた。
そこで気付いたことは、パニックになっている人が一人もいなかったこと。
誰もが、落ち着いていて、冷静。


こういう時、完全に情報が寸断される。
唯一、頼りになるのは、ラジオ
そして正直、FMよりはAM。

まず、私達が知りたかったことは、「この地震(おそらく)は、関西だけのものなのか、全国的のものなのか。

そんな事すら、わからない。



間もなく、しらじらと夜が明け始め、周囲の様子が見えてきてた。
見えてきて始めて、起きたことの大きさに気付かされた。


自宅の2F部分は、南向きの窓ガラスがハメ殺しになっている。
長さでいえば・・・3メートルちょっとくらいかな?

それが、粉々に割れていた・・・。


別の部屋の窓は、鍵をかけていなかったから、揺れている間に、開いたり閉まったりを繰り返し、力が分散されて、割れずにすんだ。実際、私が寝ていたベットの南側、つまり私と妹の頭の真上にある窓は、バンバンバンバンバンバンと音を出していたのを思い出した。あれ、鍵かけてたら、どうなってたかなって考えただけで怖いし、3Fから1Fに靴を取りに行った父に、何故ケガがなかったのか、未だに不思議。


しばらくすると、近所の人が「おたくの自動販売機から、飲料出してくれ」と言ってきた。


出してくれと言われても、売り物は売り物。でも、こんな状況でそんな事も言ってられないし(言うつもりもない)、出してあげたい気持ちは十分あった。だけど、この自動販売機の管理を、全てコカ・コーラに任せていたため、開けることが出来ず、その要望に答えることができなかった。そして、完全に前に倒れている自動販売機を、大人数人で起こした。


あ、私の眼鏡も無事見つかった。



うちの実家は近所で5件の布団屋を経営していて、実家の近くには4店舗あったので、その状況を見に行くのに、家族みんなで向かうことにした。


線路を超え、店のある商店街に入ると、空気が一変した。

というのも、自宅付近で家が完全に倒壊しているところがなかったからだ。
後で分かったことだけど、この線路を境に、南側の被災がひどく、北側は比較的マシだった。


一番自宅に近いところに位置していた本店は、見るからに全壊だった。
半分以上1F部分がなく、外からよじ登って2Fの窓から入れる感じになっていた。それを呆然と眺めていると・・・・


ある人が、毛布を抱えて歩いていた。



阪神大震災の記録(2)へ続く>>>