…己の過去すべてと向き合いきれないそれを、ツインレイのせいにしてなかったことにしたがるのが自称ツインレイ=ツインフレームです。
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己を生きる覚悟が足りないのです。
そうやって、いつも己の何か(過去)から目を逸らし続けてきたのだろうと思います。
・「ツインレイはやり直しのリセットボタンではない / これからどう生きるかを考える事に意味がある」
私たちは人生を生きている。その経緯で経験をつんでいる。その経験は私たちの過去になる。その過去を『どのような形にしたのか』が私たちの存在を確立していく。
私たちの『存在感』とは、過去が存在すればするほど、存在が確立する。しかし、過去が存在しない人たちもいる。過去を捨てる人たちだ。彼らは自分たちが生み出した経験をなかったことにし、すべてを人に押し付けることにより、経験を構築することをしてこなかったともいえる。(自分は悪くない、人のせいにする)
二極化世界では、幻想側では『存在感がない・過去が無い』存在であり、覚醒側では『存在感がある・過去がある』存在となる。
存在感がない、過去が無い人たちは、もっとも言及すると経験がない。経験がないからこそ二元論に陥ってしまうというロジックが成立する。
私たちは経験によって構築してきた過去があれば、今そこにある問題に対しても『テーマに対しての自分なりの回答』を持つことができる。
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幻想者はテーマに対して経験がないために、判断をすることが出来ない。ゆえ、覚醒者に依存させ、その意見を『否定』または『肯定』という形をとる。
このとき、否定側に偏るとき、私たちは『覚醒者と違う』と認識する。その認識により『自分は間違っていない』と考える。いわば、自分を否定されたような気分になるのである。
しかし、彼らがしているのは覚醒者の意見を否定している。他者を否定しているが、自分を否定しているに過ぎない。
結果、彼らは『承認欲求』を覚える。
...
いわば、彼らの『承認欲求』とは、存在を欲求しているのである。
・「ツインレイの世界線の選択ルートマップ」…by私の7人目のツインフレームの彼女
二元性へとどまってしまうとは、善悪二元論でもあるが、これは『精神』である。正しい心を持っているともいえる。そして正論的であり、自身のなかに『あれをしてはならない』という考え方も生じる。
そのとき、私たちは自身へ『禁止』を行い、他者へも『禁止』を行うことになる。
なぜ私たちは、道徳精神を中心にし、考え方を展開しているのかと言えば、それは『神に縛られているから』である。神に縛られている限り私たちは一人前とは認識されないし、一人前でないならば、私たちは神の道徳に従い、道徳により生じる善悪を中心的に試走せねばならない。
そういった縛りを脱していくことがツインレイの三元性にある。
もはや、あれですね。
ツインレイと言うテーマを目の前にして出てくるの(とる行動)が、
これまでの習慣そのもの。
と言うのは、興味深いのかもしれません。
まぁでも、
“正しい”ツインレイ情報に執着する(を探している)
=「私が間違えた訳じゃない」
己の過去すべてと向き合いきれないそれを、
ツインレイのせいにしてなかったことにしたがる。
むしろ、それはツインレイの否定です。
そりゃぁ。
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まずはそこを受け入れるところからはじまるのです。
カルハのツインレイに向けた、
「自分と向き合いたくない」救済講座
~その68~
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