この記事なんですけど。
急に時代が変化してしまったので、私の子どもの頃もこうだったらよかったのに。みたいな。
何かの理想や憧れが。
手の届かないものではなくなってしまったんでしょうね。
あの日の、思いを。
時代(世間)に潰された恨みはきっと、深いのでしょう。
前だったらここまでになっていたんですよね。
ここまでで投稿していたと思われます。
なんと言ったらいいのかわかりませんが、一致点があるのです。
これ以上は削れないみたいな。
それが「1」なのです。
「0」ではありません。
「1」です。
で、それは一致するのです。
何と。
何かとです。
***
逆に言えば、それが一致するまで削られるのかもしれません。
それは、砂時計の、真ん中を通すようなものなのか。
それとも、花瓶のくびれを作るようなものなのか。と考えて、
「ルビンの壺」の話を思い出しました。
ルビンの壺 ウィキペディア(Wikipedia)
ルビンの壺(ルビンのつぼ、Rubin's vase)とは、1915年頃にデンマークの心理学者エドガー・ルビンが考案した多義図形。
日本においては「ルビンの壺」と言われることが多いが、ルビンの顔(ルビンのかお、Rubin face)、図地の壺(ずちのつぼ、figure-ground vase)、ルビンの盃・ルビンの杯(ルビンのさかずき、Rubin's goblet-profile)……等とも言われる。
背景に黒地を用いた白地の図形で、「向き合った2人の顔」にも「大型の壷」にも見えるという特徴を持つ。初出は、ルビンの2巻組の著書『視覚的図形』(Synsoplevede Figurer)。
同書は他にも、白地と黒地にマルタ十字をあしらった図形などが多数掲載されているが、この中でもルビンの壺が最も広く知られている。
認知心理学
感覚や知覚、記憶といった人間の情報処理過程を解明する認知心理学においては、知覚システムについて様々な研究成果が生み出されてきた。
...
要は一方が図になるとその形が知覚され、残りは地としてしか知覚されないという事を、図地反転図形の1つであるルビンの壺を例に採り説明したのである。
ルビンの壺では白地(つまり壺のように見える部分)を図として認識すると、黒地(つまり2人の横顔のように見える部分)は地としてしか認識されず(逆もまた真である)、決して2つが同時には見えない。
と言うことで持ってきました。
***
話を戻します。
一致点の話です。
まぁ極限まで削って、私と「私」が一致すると、こうなる訳です。
他にもありますよ。
・“誰か”に認めてもらいたいんじゃない。私が、「私」でありたいだけ。
― ありのままの自分 ―
でも、もはやこう(一文のみに)なると、何も論じられなくなる訳です。
「感じるんだ」みたいな境地です。
ただ、相手によってはちょっと不親切ですよね。
「見て覚えろ」が通じる相手と、通じない相手がいる訳です。
まぁ、それが理解できなければ成り立たない分野の話もあるとは思います。
入り口とか心構えとして。
時に、話をする以前の問題である。みたいなこともある訳です。
それは置いておきます。
で、まぁ。
「1」はある訳です。
だからそれをどう装飾するか。に、また私の手腕と言うか、表現が試される訳です。
ここまで削ってOKがあるからです。
なんだか不思議な話ですね。
皮肉を極めて行ったら、次にこの皮肉はどっから? の説明をしている訳です。
たぶん、だから皮肉は世間を極めているんですよね。
それは世間を集約したものです。
で、そっから今度私を広げるのです。
その広げる装飾の部分は、必要に応じて変えられるのです。
それは私だからです。
世間ではないのです。
これは「言い替え」ですね。
「私」と言う中身は変わらないのです。
だからどこまでも、変な話真逆の表現であっても、私として成り立つのです。
まぁ、あんまり幅を持たせすぎて前後のつじつまが合わなくなったり、嘘を付いているように見えたらそれはおかしいです。
だけどもしかしたら、どこに行ってもやっていけるものができ上がるのかもしれません。
・愛は変わらずそこにある。それは、私が「ここまで」と区切るものではないのです。
私の人生はどこまで行くのでしょうか?
貴方が私を、
私が貴方を、
望む限り。