私は「人の幸せを祈る」ことはしません。 | 「向こうの景色を見に行こう」

「向こうの景色を見に行こう」

“ツインレイ”は自分を信じて進みましょう。あなたにはもう、他者の答えは不要なはずです。
「自分を生きる方が面白い」

それは未知です。 誰も知りません。 あなただけが知っている。

あなたの人生を語り合う相手が、あなたにはもういるはずです。

だってそれ誰かに「あなたは幸せだね」と言われなければ幸せを感じられない。と言うことです。

 

 

 

 

自分で勝手に幸せになりなさい。


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そこに他人の理解や称賛がなくてもいいはずです。


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あ、一応言っておきますが、法を犯したら刑務所で暮らすことになります。
また、グレーゾーンを攻めるのは自己責任です。

ちなみに、私が好きな因果応報の説明はこちらです。

 

因果応報とは人に罪を与える仕組みではありません。

等価性によって責任を持たせるためのものであり、「あなたが始めた行為の責任を持って、自分で終わらせましょう」という自然の原理です。

 

 

 

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私が、私の7人目のツインフレームの彼女にずっと言いたかったのはこれだったのかもしれない。と言う一文を見つけました。

 

ルネサンス期の政治学者 マキャヴェリ 『君主論』
人間がいかに生きているかという現実と、いかに生きるべきかという理想は、はなはだしく乖離している。したがって、理想を追うあまり現実を顧みない人は、足元をすくわれてわが身を滅ぼすことになるという、マキャヴェリの忠告である。若いころは理想を夢想するが、現実の人生に出てみれば、仕事にしても結婚にしても、自分の思い描いた理想どおりに行かないことをいやというほど味あわされる。理想の夢は砕け散り、日々の仕事や生活に追われ、現実の中で立ち往生することもしばしばである。たしかに現実の重みを知らない理想主義は、楽天家、若気のいたり、お坊ちゃまの遊びと言われよう。しかし、逆に理想が自己に向かうべき方向を指し示す指針をならなければ、現実に右往左往し、翻弄されるだけである。現実を前に無力感を感じてあきらめる前に、現実に対峙しつつ、地に足をつけて粘り強く理想の方向へと駒を進めていく、重心を低くかまえた理想主義が必要ではないか。

 

 

「いかに生きているか」ということと、
「いかに生きるべきか」ということは、

はなはだしくかけ離れている。


だから、
現実を前に無力感を感じてあきらめる前に、現実に対峙しつつ、地に足をつけて粘り強く理想の方向へと駒を進めていく、重心を低くかまえた理想主義が必要ではないか。
と言うことに繋がるようです。 

 

 

 

 

 

 

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誰かの幸せを願っていれば「己の目の前の現実と向き合う必要はない」…それって、ただの現実逃避じゃないの?

そう言うのを「偽善者」と言うんじゃないの?