「ツインレイ女性が共依存・ツインレイ男性が回避依存」 | 「向こうの景色を見に行こう」

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ツインレイ(魂の片割れ)は「己の真実」を生きるのです。それがどう言うことなのか、自分で考えられるはずです。

己の人生に責任を持って、自分と向き合って、「0」から進んでいける覚悟を持てるのがツインレイです。
それは“新しい”創造のはじまりです。

…言わば、これがランナー&チェイサーと呼ばれている所以にあり、結局のところ2人の関係は「依存にある」らしいです。

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「ツインレイ女性が共依存で、ツインレイ男性が回避依存」を解説
 
する記事を上げたのは少し前なのですが、どうにも説明として引用したいな。とは思いませんでした。
 
昨日の記事ならこれ、と言うのがあったので引用します。
 

 

ツインレイの依存とニヒリズム

回避依存の人も、共依存の人も、どちらも根源に『虚無』を抱えている。

虚無たる自分から逃避しているのが回避依存であり、虚無そのものであるため、共依存は誰かに価値を見つけることで寄生する。

つまり、回避依存と共依存の中心は『虚無』が存在し、その虚無ゆえに共依存と回避依存をしている状態にある。どちらも逃避にあるが、根源には『虚無』がある。対応の仕方が違うと言うことだ。

~中略~

回避依存のツインレイはニヒリズム

回避依存は常に共依存側のツインレイに価値がない自分を見つけさせられ続けているようなもんである。常に見たくないものを見続けなければならない状態にあるから、根源的にある『虚無』と向き合わないために回避依存をしているともいえる。

ゆえに回避依存となるツインレイは、虚無に向き合わないために、ワーカホリックになったり、性的依存を生みだしたり、お酒をたらふく飲んだり、ギャンブラーになってみたりと自分の本質と向かい合わない術を持っている状態にある。

何かしらから逃げている状態にあるが、回避依存が向き合わなければならないのは『本当にはマジで何も持っていない自分』である。そしてそれが『当人の等身大の自分』にあるのではないか——と思う。

そして回避依存の人たちが優秀な理由は、虚無であることから逃げ出すために『ハリボテのように表面的に取り繕った自分』を生み出していくことにより、等身大の自分と本当の自分との乖離が生まれると言うことだ。

等身大の自分を常に人は見ているが、ツインレイの相手だけは『本当の自分』を見てくる。

なとり的に言えば「弱虫、毛虫、ダンゴ虫」だし「地位もない、名誉もない、フィンランドの領土も持っていない、金髪碧眼でもない、何にも持っていない男の子」である。まさになとりがツインレイの相手を見るとき、何も持っていない等身大のツインレイそのものだったとだと思われる。

ハリボテはツインレイの相手の前では崩される。もはや逃避せずにはいられまい。

~中略~

共依存のツインレイは虚無そのもの

共依存のツインレイは『虚無そのもの』でもある。ゆえに、回避依存のツインレイにとっては等身大のツインレイともいえるが、共依存のツインレイが抱えている問題は『自分が虚無であるからこそ、他者に価値を見つけること』にある。

他者に価値があれば、他者の価値に依存していく。いわば、これをとてつもなく侮辱用語に変換すれば『寄生』ともいえるんだ。

自分に価値がないから、他者の価値によって自分を価値化させていく。

ツインレイにも言えることだと思う。ツインレイのなかでもいろんな方々がいるけど、ツインレイの相手と結ばれることにより自分を価値化したとき、それは共依存に他ならず、ツインレイの相手と結ばれていないときに自分にはまるで価値がないことをそっくりそのまま受け入れる必要性がある。


共依存のツインレイがなぜ回避依存のツインレイを追いかけてしまうのか。

はっきり書いてしまうと「回避依存の彼には自分しかない」というよくわからない自信があるためにある(これは傲慢な考え方だと思う。自分をすごい人間だ、とか自分には価値があると思い込んでいる人たちの発言のように感じられるからだ。)。どこかのツインレイの記事に書かれているかもしれない。これはもうホント、落とし穴としか言いようがないように思う。

回避依存の彼は共依存の相手を捨てて逃げたのである。それは『価値があると思っている存在への対応』なのか——。冷静に考えてみる必要性がある。


共依存のツインレイが受け入れなければならないのは『ツインレイ男性にとって価値がないと判断された自分』である。だから捨てられたのである。だから見放され、切り離され、拒否されているのである。

共依存の幻想では「彼は回避依存だから自分のことが好きだから避けているんだ。」とか、なんかまァ、自分にとってご都合主義的な判断をすることになるんだが、冷静に考えてみてほしい。

相手は自分ではない。つまり相手の気持ちを予測した判断に価値はない、それは真実ではない。価値がないものを信じ続けている状態になるのが共依存のツインレイにあり、必要なのは『現実』にある。

魔境の恐ろしさは『妄想が事実だと思い込み始める』ことにあり、現実から遠のいてしまうことにある。

~中略~

ニヒリズムの克服について

ニーチェさん的には、3種類のニヒリズムに対しての対応があって、ひとつは「なんかもうダメだ。何も信じられない・・・流されるように身を任せよう・・・」という生き方。これが消極的なやり方。たいてい皆、最後は自殺して終わる。(私の闇の刺客のうちの天使的思想だな。)——消極的ニヒリズム

2つ目は「従来の価値観よりも新しい価値観を構築していこう。」となる考え方なんだが、根源的には無意味であることなどのニヒリズムを受け入れる状態のまま、だったら新しい思想を生みだせばいいやっていう姿勢。これがなとり。従来のものに意味がないから新しく思想を構築している。(なとりが超人いわれる理由はここ。)——積極的ニヒリズム

3つ目は、絶望にも意味がない(消極的ニヒリズムを否定)、新しい価値を創り出すことも意味がない(積極的ニヒリズムを否定)。自分では何か行動を起こすこともないし、自分で何も考えない。そして他者に何か言われても「自分には関係がない。」と無視して生きていくっていう思想(闇の刺客の悪魔的思想)——無関心的ニヒリズム

~中略~

『自分には価値がない』。このニヒリズム的な視点をどのように受け止めるのかの度量の話のような気がする。自分には価値がない、それを大前提にして生きている私にとって、今の現状は「まァ、そうだよね。」っていう最悪の想定内とも言える。

しかし、自分には価値があると思い込んでいる(価値があるとは思込みに他ならない)場合、共依存や回避依存に傾倒するが、回避依存の場合、無関心的ニヒリズムに落ち着き、共依存の場合、消極的ニヒリズムに落ち着くように感じられる。

自分のなかに生み出す『自己』というものが存在するのであれば、それと同化したときの反応のように思う。

たとえば、共依存の場合、ニヒリズムという虚無と同化したとき、その虚無に対しての対応力がない。ゆえに流されるしかない。このとき『虚無』でしかなくなる。虚無の乗っ取りが起きる。

共依存の場合、ニヒリズムという虚無と同化したとき、その虚無に対しての対応力はやっぱりない。ゆえに価値がないことを受け入れられず『悟りをひらたかのように見せかけている客観した人』みたいな感じになる。これは自己のなかで『虚無』と『自己』が分離した状態になるためだ。

つまりニヒリズムの対応は『どれだけ自分を育て上げてきたのか』により結果が違ってくる。

自分が成立していなければ、虚無に対してどのように対応すればいいのかがわからないのである。共依存は自己がないから虚無に乗っ取られ、回避依存は虚無を自己が受け入れられない為、虚無と自己が分離する。


超人へと進む積極的ニヒリズムの人たちは、虚無が創造の根源だと知っている。自己を構築してきたツインレイたちにとって、虚無へ触れることは新しい始まりでもある。

無となれば創造をし練り直せばいいだけにある。それだけの自己を構築し、自己そのものが虚無を受け入れる姿勢があることが重要にある。

根源には『自分には価値がない』という視点をうけいれてきたことにある。これは『他者に価値がある』と考えてきた人たちにより構築されることにあり、未熟な私たちは従来は自分の価値を失うことでしか他者に価値を齎すことができない。

しかし、今回のニヒリズムによる虚無に触れた段階で『新しい創造』をする。そのとき、自分の価値と他者の価値による善悪思想から二極の循環思想へと組み替えていくことにより、私たちは新しい思想を手に入れていくことが出来る。

自分のなかに生み出す『自己』というものが存在するのであれば、それと同化したときの反応のように思う。

たとえば、共依存の場合、ニヒリズムという虚無と同化したとき、その虚無に対しての対応力がない。ゆえに流されるしかない。このとき『虚無』でしかなくなる。虚無の乗っ取りが起きる。

共依存の場合、ニヒリズムという虚無と同化したとき、その虚無に対しての対応力はやっぱりない。ゆえに価値がないことを受け入れられず『悟りをひらたかのように見せかけている客観した人』みたいな感じになる。これは自己のなかで『虚無』と『自己』が分離した状態になるためだ。

つまりニヒリズムの対応は『どれだけ自分を育て上げてきたのか』により結果が違ってくる。

自分が成立していなければ、虚無に対してどのように対応すればいいのかがわからないのである。共依存は自己がないから虚無に乗っ取られ、回避依存は虚無を自己が受け入れられない為、虚無と自己が分離する。


超人へと進む積極的ニヒリズムの人たちは、虚無が創造の根源だと知っている。自己を構築してきたツインレイたちにとって、虚無へ触れることは新しい始まりでもある。

無となれば創造をし練り直せばいいだけにある。それだけの自己を構築し、自己そのものが虚無を受け入れる姿勢があることが重要にある。

根源には『自分には価値がない』という視点をうけいれてきたことにある。これは『他者に価値がある』と考えてきた人たちにより構築されることにあり、未熟な私たちは従来は自分の価値を失うことでしか他者に価値を齎すことができない。

しかし、今回のニヒリズムによる虚無に触れた段階で『新しい創造』をする。そのとき、自分の価値と他者の価値による善悪思想から二極の循環思想へと組み替えていくことにより、私たちは新しい思想を手に入れていくことが出来る。

―以下略―

 

 

ちなみに、これです。 

 

>共依存のツインレイが受け入れなければならないのは『ツインレイ男性にとって価値がないと判断された自分』である。だから捨てられたのである。だから見放され、切り離され、拒否されているのである。

 

私は彼女と私が友達だと思って(向こうの認識ではお役目で出会っただけ)、やり取りをしていた時期がありました。
彼女が消した当時のHPで「私たちはツインレイの相手に失恋しているんだ」と言う趣旨の記事があって、私はこの話を書きました。

 

 

 

まぁ、「失恋」と言われて思い当たる節はあったのです。

ちなみに、相手に失恋しているんだ。と言う話は新しいHPでも出てきていました。


私は貴方が私にわかるように「ツインレイ」を伝えてくれた時、自分が貴方の相手だとは思えなかったのです。
貴方にはすでにお相手がいるのだろうと思っていました。
それで、私には私のツインレイの相手の元に行けと言われているのかと思って。
私はツインレイが嫌いになったのです。

 

 

貴方は予告をくれました。だから私は「もしかして、今後、貴方と連絡が取れなくなるのかもしれない」と言う予感はあったのです。

月末になって、貴方は、私にわかるように“ツインレイ”を伝えてきました。
私、びっくりして。
実は、私は貴方の迷惑になっていたのかな。と、考えました。
私が貴方の相手だとは思えなかったのです。
当時、「ツインレイ」と言う言葉は知っていました。
私には関係ないと思っていました。
だから、貴方に、
「私のツインレイの相手のところに行け」と言われているのかと思って。
私は貴方が好きなのに。
他に運命の男がいてそっちに行けと言われているのかと思って。
「相手が貴方じゃないならいらない」と、私は「ツインレイ」が嫌いになりました。

そこで、とある方法なら貴方に連絡が付けられましたが。
私はそれを無視しました。
私が貴方にふさわしい女だったら、貴方に選ばれるような女だったらよかったのに。
でも、私はそうではないのだ。と。
だから、「私1人で何かを成す」と蹴ったのです。

...

そして、もう数日して、貴方との連絡がどうなっているのか。
確認しました。
完全に連絡が取れなくなっていました。
貴方は、私の、
「私1人で何かを成したい」を、尊重してくれました。

...

「せめて年に一度だけ、<声が聞きたい>と願う事だけ許して下さい」

それで一生、生きていけると。私は考えました。
迷惑をかけたのかもしれない。これも迷惑になるのかもしれない。
でも、これだけ。
貴方は優しいから、それだけ、許して下さらないかな。
と、アカウントを葬って泣きました。


で、私は、「私1人で何かを成す」を行動に移しました。

 

……。
あれ?
>迷惑をかけたのかもしれない。これも迷惑になるのかもしれない。
>でも、これだけ。

>貴方は優しいから、それだけ、許して下さらないかな。
 
あー。
どうりでやり取りをしていた時、「みんなの責任をとって優しい世界を作りたい」とかのたまう彼女に、「カルハはどうしていつも怒っているの?」と聞かれ、「優しくは無い。」「怖いし痛い。」とか言われた訳です。


今でこそ本人は、こんなことを言っていますけどね。
これは別の記事から持ってきました。

 

ツインレイの回避依存と共依存の結婚はどうなる?

回避依存している側は、恋愛中は共依存のほうが辛い。
だけど、結婚するとなれば回避依存のほうが辛いことになる。結婚は束縛であり、共依存者との結婚はプライベートの侵入を常にされ続けることにある。

ツインレイによる結婚を目指す人が多いと思うんだが、共依存が女性に多いことからツインレイの出会いから再会まで苦しむのがツインレイ女性で、結婚後に苦しむのがツインレイ男性とも言える。

んで、この苦しみをツインレイ男性に与えたいのか——ということを考えたとき、私は誰かを犠牲にしてまでしあわせになりたいとか、そこまでして結婚がしたいとか。そういう考えはなかったゆえに、私は第二サイレント期間を迎えたという感じだ。


第一サイレント期間では『回避依存と共依存の関係性』で、このふたつの関係性が成立し、次に結婚をそのまま進めることもできる。が、このとき、回避依存側のツインレイ男性が苦しむことが分かっていて結婚したいと思うのは、それはエゴのように思う。(そこに愛はあるのか?ってことだ。)

このエゴが働いたとき、第二サイレント期間の長さは短く終わるように感じられる。

第二サイレント期間が長いのは、相手の気質を内包するのに時間がかかるゆえに思う。この期間にツインレイ男性の精神を構造する回避依存を内包し、回避依存を共依存により直し、愛着の問題を解決する必要性がある。そりゃ時間かかる罠。


ツインレイ女性への愛への降伏として、サレンダーと呼ばれているものがある。この降伏は、私たちが持つ本心と向き合う経緯のように思う。

また、夢のなかで「連絡してもいいのか悩んでいる」と去年に得られた直感があったように思うが、回避依存の人にとって、逃げた事実に対し、相手が再び受け入れてもらえるかどうかも悩ましいことにあるんだろう。

もし、そこに本当に愛があったならば、再びの連絡は長く時間がかかるように思う。だけどそこに愛がないのであれば、再びの連絡は都度あるだろう。

回避依存の人にとって傷つく覚悟ほど難しいものはないように思う。

少なからず、私の強さは『人を傷つける覚悟』『自分が傷つく覚悟』のうえに存在している。傷つ合うことが怖くて人間関係はやってられねえからだ。

共依存の人にとってツインレイの相手がいないことを受け入れる覚悟ほど難しいものはないのかもしれない。

ひとりで生きる覚悟を決めていくことは、私たちにとっての究極の選択のように思う。

だけど、これはツインレイの彼が持つ強さでもあるように思うから、それを受け取っていくことが大事なのだと思う。


相手が持つ気質を愛せよ。私たちの道はここにある。

 

 

そうやって回避してきたものが本人にもあるのでしょう。

ま、そう言うことでもあるようです。


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ちなみに、私が彼女の「ツインレイは魂の双子ではあるし、魂の双子ではない話」で考えたら「ツインレイってナルシスト」だな。と感じたのでこの記事を書こうとして、

 

【ツインレイ】…自分と結婚しようとて自分を2つに分けたけど、それじゃ「魂が近親相姦になっちゃう」と気がついて右往左往しながらも初志貫徹で諦めない究極のナルシスト。

 
ふと彼女のHP行ったら新しい記事に「ニヒリズム」とありました。
 
私は、何か、彼女の負けず嫌いに火を付けてしまったのかもしれません。