映画『Wの悲劇』をひさびさに見ました。いや〜声に出したくなる名セリフの宝庫!
「顔ぶたないで!私女優なんだから!」
「女優!女優!女優! 勝つか負けるかよ!」
「芝居するのよ・・・嘘を演じるの」
たまりませんなあ(笑)。そして特に印象的だった会話は劇中の舞台『Wの悲劇』に出演している大女優・翔(三田佳子)が新人女優・菊地(高木美保)の演技にケチをつけるシーンです。
翔 「この子ね、ホントとホントらしくがちっともわかってないのよ。(中略)
菊地さん?あなたどうして毎日ちゃんと涙が出るの?」
菊地「可愛がってた犬が死んだときのことを思い出すと、いつも涙が出てくるんです」
翔 「・・・フッ。そんなの『Wの悲劇』に関係ないじゃない!」
うわあ。いろんなものが詰まった会話ですねえw。
舞台上で「感情」をどう演じるべきか?という話題。「人生で一番悲しかった時のことを思い出しながら演じて!」ってこれボクも芝居始めた頃に言われたなあ。これ「感情の記憶」ですよね。つまり菊地はメソード俳優なわけです。では翔は?・・・今回はこの『Wの悲劇』からザックリと演技の歴史を学んでみましょう。
たしかに「涙出せるか問題」ってありますよねー。・・・でもね。
現実の世界で人が涙を流す時って、無表情から不意にポロポロポロッ!って感じじゃないですか。泣きそうな人って大抵「いま泣いちゃダメだ!」と思ってるから、感情を抑えようとして無表情気味になるんですよ。で不意に感情が決壊してポロポロポロッ!ってなる。
ところが俳優って泣くシーンで「泣きたい!泣かなきゃ!」と思ってるから、悲しみを奮い立たせようとすごく悲しそうに顔を歪めて、感情を絞り出して・・・頑張って泣こうとしてる姿を観客に見られてしまう。これじゃ台無しなんですよね。
現実の怒る人もそうです。「怒っちゃいけない!」と思うから無表情になっていって急に爆発する。笑っちゃいけない場所で笑いそうになってる人も「笑っちゃダメだ!」と思ってるから無表情になっていって急にブハッ!!!って笑いが爆発・・・人間の感情って複雑ですよねw。
でも「~しちゃいけない」と思いながら~するなんて・・・どうやって演じたらいいんでしょう?
みなさん「感情」ってどうやって演じてますか?
映画の顔のアップのカットがどんどん長尺になっていってる昨今、感情の変化のディテールをどう演じるかの重要度が年々増しているように感じます。(顔のアップのカットの長尺化はハリウッド映画でもヨーロッパの映画でも、そして邦画でも進行中です。)
感情を演じる方法ってザックリ分けて以下の4つの方法があります。
① 感情を演じない
モンタージュとクレショフ効果を使って編集サイドで感情を作る手法で、その素材として俳優はなるべくあいまいな表情で演じます。この手法では長尺カットでの感情の変化を表現できないという点が欠点です。
② 感情を込めて演じる
意図的な表情や声色を使って感情を情熱的に演じます。これがおそらく一番古くからある感情の演技法で、欠点はクサくなること。詐欺師が人を騙す時にも同じ手法を使うので、見ていて嘘っぽく感じることが多いのも問題点で、長尺になるほど嘘っぽさが増すので長尺アップのカットにはこれも向いていないのかもしれません。
ブログ冒頭の『Wの悲劇』大女優の「芝居するのよ…嘘を演じるの」はこの演技法についてのセリフですね。つまりこの大女優はいつも嘘を情熱的に感情を込めて演じている、というわけです。
③ 俳優自身の「感情の記憶」を掘り出して演じる
いわゆるアクターズ・スタジオ流のメソード演技です。演じるべき感情と同種の「感情の記憶」を思い出すことで、肉体と心をリアルにその状態にしてしまうという方法。 怒る・笑う・泣くなどの「感情の爆発」を演じるのに適していて、1960~70年代に大流行しました。
この③の「感情の記憶」の問題点は何でしょうか?
「感情の記憶」を確立したのはアクターズ・スタジオの演技講師リー・ストラスバーグです。それに対して彼の演技講師仲間のステラ・アドラーとサンフォード・マイズナーが「感情の記憶」の問題点を厳しく指摘してメソード抗争みたいな状況になりました。
ステラ・アドラーは俳優自身の過去の感情の記憶を参照するのではなく「脚本と役の人物に関する徹底的なリサーチをして、想像力を使って役と一体化して行動すれば、しかるべき感情はついてくる」と主張し、サンフォード・マイズナーは「役同士の関係性の相互作用から感情は導き出されるべきだ」と主張。(ザックリとした説明でスミマセンw)そう考えると徹底的なリサーチ&役との一体化で有名な「デ・ニーロ・アプローチ」はステラ・アドラー式ですね。
この抗争は結論が出ないまま20世紀いっぱい続くんですが、これが思いっきりブログ冒頭の「可愛がってた犬が死んだ〜」の会話そのままなんですよ(笑)。翔をステラ・アドラー、菊地をリー・ストラスバーグだと思ってもう一度読んでみましょうw。
翔 「この子ね、ホントとホントらしくがちっともわかってないのよ。(中略)
菊地さん?あなたどうして毎日ちゃんと涙が出るの?」
菊地「可愛がってた犬が死んだときのことを思い出すと、いつも涙が出てくるんです」
翔 「・・・フッ。そんなの『Wの悲劇』に関係ないじゃない!」
そうなんです、俳優がそのシーンと関係ないことを考えていることが「感情の記憶」の問題点なんです。
だってそうですよね。たとえば目の前で恋人が死にそうになっているシーンで、「感情の記憶」を使う俳優は過去に死んだ可愛い犬のことを思って泣いているんです。
いやいや!目の前で恋人が死にそうになってるから!犬の事なんか考えるのやめて!(笑)
もしここでさらに死にゆく恋人役の俳優もまた「感情の記憶」で自分が過去に病気かなんかで死にかけた時の事とか思い出してたりすると、も~大変です。抱き合いながら熱演してる俳優たちが2人とも別々の記憶の世界に居て、お互いのことを考えてないんですから(笑)。相互に全く影響しあわない、会話のニュアンスがまったく咬み合わない、ひとり芝居がふたつみたいな状況になってしまうw。でもこういうちぐはぐなシーン、映画を観ているとたまにありますよね。
いやいやいや・・・目の前にいる俳優と演技しましょうよ!って事です。
そして『Wの悲劇』後半。無実の罪をかぶった新人女優・静香(薬師丸ひろ子)は、記者会見会場で大芝居をうちます。
「役の人物に関する徹底的なリサーチをして、想像力を使って役と一体化して行動すれば、しかるべき感情はついてくる」というステラ・アドラー式のアプローチで悲劇のヒロインを演じ、カメラの前で号泣してみせることで、日本中の人々を見事に騙しきってしまうんです。そして彼女は「女優」の仲間入りをするわけです。
そしてその迫真の演技を見た「感情を込めて演じる古いタイプの女優」である翔(三田佳子)は嫉妬するという・・・いや~ホントよく出来た脚本!
おっと、感情を演じる方法の4つめを書く字数が無くなってしまいました。
④は「コミュニケーションから生まれた感情のまま演じる」です。これは21世紀に入ってからサンフォード・マイズナー式をさらに改良発展して編み出されたディテールの豊かな演技法で、これが確立したので顔のアップの長回しが可能になった、みたいなやつです。最近の欧米の映画の多くはこの演技法で演じられてます。
この演技法はまだ名前が無くてボクは「テン年代の演技法」とか「21世紀の演技法」とか呼んでるんですが、これについては<後編>に書きますね。それではカミング・スーン!
小林でび <でびノート☆彡>
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