『映画における即興演技<前編>』 | でびノート☆彡

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映画監督/演技講師 小林でび の「演技」に関するブログです。

唐突ですが「即興演技」って最高ですよねw。

エチュードとか、インプロとか、アドリブとか、演じててアドレナリンだかドーパミンだかが出まくるヤツw。俳優だったら一度はハマるやつですよね。ボクも即興で演じるのは大好きです。

 

即興演技の面白さは「生々しいやり取り」「活き活きした表情」「型にハマらない人物表現」。演じてる俳優自身が先のストーリーを知らないので、目の前で起きたことに本気でびっくりしたりできるわけです。予定調和にならない。ストーリーに束縛されずに、自由に演技ができるわけです・・・理論上は・・・。

 

ところがところが、実際には、即興演技において俳優は「逆に最も型にハマった演技」をしてしまいがちなんです!

 

 

 

まずエチュード(即興演技)が始まるとですね、俳優はやるべきことが何もないので不安になるんですね。で「なにか喋らなきゃ!」「なにかしなきゃ!」で頭の中がいっぱいになって戦々恐々としはじめるんです。

そして、まるで海に放り込まれた人間が必死に摑まるものを探そうとジタバタするみたいに、壮絶にジタバタし始めますw。

普段は「与えられたストーリー」とか「与えられた台詞」とか「与えられたキャラクター」とかに摑まって泳いでいるのに、それが無いものだから、必死になってその代わりになるものを探そうとするんです。で結果どうなるか。

超絶ありきたりなストーリーを、超絶ありきたりな演技で演じはじめるんです。超絶ありきたりな「説明せりふ」を喋りながら、「説明的な表情」を作りながら、必死になって着地点を探す。オチを探す・・・これがエチュードあるある。

 

結果、ライブ感はあるんだけど、演技がぜんぜん生々しくない!活き活きしてない!

即興によって自由になれるはずの時間なのに、実際にはその逆に自分で自分を型にハメて演じてしまいがちになるんです、俳優って

 

エチュードとかインプロのライブってよくあるんですけど、あれってようするに「即興で俳優たちが無茶ぶりの嵐の中、必死にストーリーを作ってゆく」ことが見どころになってるんですよね。演技自体はむしろ通常より型にハマっていて、生々しくもリアルでもない。

 

では「生々しいやり取り」「活き活きした表情」「型にハマらない人物表現」を即興で獲得するにはどうしたらよいのか。そのヒントは映画の歴史の中にあります。

 

 

即興演技を撮影した映画って昔からたくさんあるんです。

古くは1960年代から。代表作としてはフランスのジャン=リュック・ゴダール監督『勝手にしやがれ』(1960)『気狂いピエロ』(1965)、ヌーベルヴァーグですね。

それにアメリカが続いて『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー監督1969)などアメリカン・ニューシネマ映画の多くがアドリブ撮影されました。

 

でも「即興!」とは言っても、さっきも書いた通り完全な即興だと俳優が溺れて大変なことになってしまうのでw、これらの映画は完全な即興ではなく、ある制限の中で即興「的」に演じられ撮影されているだけです。 撮影前日とか当日とかにシーンの内容が決まって台詞の書かれたメモが俳優に渡されるとか、台詞は決まってないけどシーンの内容は決まってる状態でよーいドンで撮影とか、そういう撮影方法ですね。

俳優はメモに書かれた少ない情報をもとに自由に即興的に演じるわけです。

これはジャズの即興演奏に似てますよね。完全にゼロから始めるのではなく、リーダーがあらかじめ「テーマ」だけ決めて、それをモチーフに複数の演奏者がアドリブで演奏する。そしてそこから生まれた予想外のグルーブが素晴らしい演奏を生む。アレと同じです。

 

 

そして映画における即興演技の第2の波は1990年代。

『恋する惑星』(1994)『天使の涙』(1995)『ブエノスアイレス』(1997)などウォン・カーウァイ監督&クリストファー・ドイル撮影監督の最強タッグ一連の作品。

これらは俳優たちがやはりメモや口頭の説明を頼りに、自分の役をエキセントリックに自由に演じる「演劇的な演技」を、天才撮影監督クリストファー・ドイルがドキュメンタリーとして生々しく撮影し、ウォン・カーウァイがそれをまた生々しく編集で切り刻む、という達人たちの神技の応酬みたいなスタイルで撮影された映画でした。じつは演技だけを取り出すとそんなにリアルでもなく演劇的、舞踏的なのです。

この90年代の即興演技映画は、撮ってゆきながらすでに撮った内容にあわせて先のストーリーを変更していってる作品が多いですね。大傑作『ブエノスアイレス』などは撮影当初の脚本は完成した映画とぜんぜん違う内容らしいです(笑)

 

おなじく1990年代、日本では『3-4X10月』(1990)『ソナチネ』(1993)など北野武監督の一連の作品が即興的に撮影されて、海外映画祭などで絶賛されました。

これらもウォン・カーウァイ作品と同じで撮りながら当初の脚本から逸脱していくことで作品としての生々しさを獲得しています。 順撮りで即興的に撮影していたので『ソナチネ』の大杉漣さんの役が序盤で死ぬはずだったのに、結局最後まで生き残ってしまった、というエピソードは有名ですよね。ボクはこの即興的な時代の北野映画が一番エキサイティングに感じられて、好きです。

 

90年代。ウォン・カーウァイ作品も北野武作品も撮り進めるにしたがってストーリーが変更になってゆく、もしくはそもそも俳優に先のストーリーを知らせないで撮影を進めることで、俳優に取り付く島を与えないw。脚本がアテにならなければもう俳優は目の前のことに集中するしかないんです!

そんな手法で90年代の傑作映画たちは「生々しいやり取り」「活き活きした表情」「型にハマらない人物表現」を獲得していきました。

よく俳優は演出家から「作品の全体像を意識しながら演技しないとダメだ!」という演出をされますけど、それとは真逆で面白いですね(笑)

 

 

あー字数が尽きました。本題に入れなかった!(笑)

この話題、<前・後編>にしましょう。

『勝手にしやがれ』と『イージー・ライダー』について、具体的なシーンの具体的な演技を見ながら、その即興のあり方について解説するつもりだったんですが、それは『映画における即興演技<後編>』で。

 

ではではまたー☆彡