Philosophy of Development ~第9章 ユーラシアの内陸諸国をめぐって | 由川 稔のブログ

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モンゴル、ロシア、カザフスタン等と付き合って、早30年以上経ちました。軽い付き合いも重い付き合いもありました。いったい何をして来たのか…という思いもあります。「近代化」、「自由化」、「開発」、「資源」等をめぐる国際的な問題について、考えています。由川稔

「近代化」や「自由化」、国際的な「開発」の問題や「資源」の問題に関する箴言の備忘録

 

9章 ユーラシアの内陸諸国をめぐって

 

1.21世紀のシルクロード

 

(2)関係各国の事情

 

a. モンゴル国

 

番外編 「イスラム国」(1)

 

モンゴルの友人と「イスラム国」について議論する機会がありましたので、後々のためのメモとして、レポート的な形でまとめておきます。

 

 

1.「陰謀論」の陰謀(?)

 

先日はチュニジアで邦人観光客も犠牲になる銃撃事件が発生。「イスラム国」が関与の声明を出した。さらにはイエメンでも自爆攻撃による死傷者多数と伝えられる。生命を粗末にする行為は決して許されてはならず、どのような対策を講じることができるのか、私たちも多角的に、真剣に、考えなければなるまい。

「イスラム国」…この名称からして、様々な議論を生んでいる。例えば、「国際的承認を得ていない集団を『国』と呼ぶのは彼らの計略にはまることだ」とか、「彼らにイスラム世界を代表させるような印象を与えてしまっては、一般のイスラムに対する誤解や偏見を生み、申し訳ない」といった意見がある。

細かい宗派の別は問わずに大括りにした場合、1990年に約10億人とされていたムスリム人口は2010年には約16億人、今や世界人口の約「4人に1人」はムスリムであるという。これは約「3人に1人」とされるキリスト教徒に次ぐ多さで、2030年には20億人を超えると見られ、40年間で10億人、つまり中国が一つ生まれるくらいの勢いで宗教人口が増加中ということでもある。そのような人たちに対する誤解は単なる規模で見ても特大の誤解になる。規模は本質的な事柄ではないが、「イスラム国」との根拠のない混同や牽強付会な解釈が厳に慎まれなければならないのは当然である。

その一方で、「イスラム国」が「イスラム」と無関係かと言えば、決してそのようなこともなく、後述する通り、むしろ「イスラム」に根差してこそ出現し得た集団ではある。また、彼らはもちろん未だ国として認められてはいないものの、彼らほど、理念の上でも統治(支配)の上でも「国家建設」に執着し、現実的足跡を残しつつある武装勢力も無いと見られている。ここでは、そのような点を意識に上らせる意味で、あえて「イスラム国」と記す。

またさらに、「声高にイスラムを叫びつつ残虐行為に及ぶ彼らは、実は、その非道さでイスラム教を貶めようとするユダヤ教勢力とキリスト教勢力の陰謀によってつくられた組織であり、宗教紛争や地域紛争を引き起こすことで、イスラエルと繋がる米国の軍需産業を潤そうとしている」という見方もある。これに関しては、米国の著名政治家とイスラム国指導者アル・バグダディ(を演じるイスラエルのエージェント?)たちとの繋がりがインターネット上で数々指摘されたり、イスラム国がイスラエルを攻撃しないのがその証だと言われたりもしている。

筆者にはこういった説に対する判断材料が無いので、肯定も否定もできない。そもそも「陰謀」と言われるものがそう易々と表に出るものなのかどうかもわからないが、いずれにせよ、どこも恐ろしげな情報で溢れている。

ただむしろ、陰謀論的な話を聞かされて妙に納得してしまうと、人の思考はしばしばそこで止まりがちであるということの方が、より怖い気もする。そのために見えなくなる事、考える対象から排除されてしまう事も多いと思われ、少なからぬ人々の目を深い議論や思考から逸らすことの方が、誰かの陰謀ではないか、とさえ感じてしまう。このように、陰謀論については果ての無い話になるので、ここではこれ以上立ち入らない。

 

 

2.近代的な方法で前近代的社会を構築

 

近代化自体の良し悪しはさておき、欧米がたどってきたような近代化をある社会が実現しようとすると、「宗教」という集団的な仕組みを、法や政治といった社会の機構や個人の精神に介入させない制度を作る必要がある。(「脱宗教」化した近代社会では、「宗教」は集団的な事柄であり、「信仰」は個人的な事柄である。「政教分離」や「良心の自由」等。)

近代以前の西欧では、「人間同士の格差などは、神と人との隔絶に比べれば大したことではない」という意味で、「人は神の前では皆平等」と考えられていた。しかし、それが脱宗教により、「人の外面を律する法の下で皆平等」という意識に変わった。その法の支配する範囲が国家となり、人は各々一国民となった。また、外面的行動の解放は個人主義を生んだ。人は、人がその時々の都合で作る法規範に従いさえすれば、何をやってもよくなった。「神」から「法」への転換が実現できた一因としては、キリスト教自体は本質的に法規範たりえず、中世期を通じて西欧社会がローマ法とゲルマン法の支配するところであったことが指摘される。

他方、イスラム世界では、ムハンマドは「最後の預言者」とされ、コーラン(クルアーン)も最終啓示とされるため、ユダヤ教の『「旧約」聖書』に対するキリスト教の『「新約」聖書」』のような「契約の改訂」はありえず、「現在」と「将来」の問題への対処法は、常に「過去」の基準から編み出されていく。また、コーランは絶対不変の神の意志そのものだから、それに比べれば、人間がその時々の都合で作る法律や約束事、国際条約等の地位は低い。[1]

 

イスラムが、ユダヤ教やキリスト教を受け継ぐ形で生まれたことはよく知られている。では、何が受け継がれたか。中でも「契約の観念」は、重要なものの一つであろう。

関連する有名な話として、「キリスト教式の結婚式で新郎新婦は誰に対して結婚を誓うか」というものがある。正解は「神に対して誓う」。新郎新婦間の「横の契約」ではなく、各々、相手との結婚を神に誓う、神との「縦の契約」である。[2]

これと同様、イスラムにおいても、契約は神との「縦の契約」である。商取引でもそういう観念が先に立つ。人と人との「横の契約」ではない。横の取引関係は、神と人との「縦の契約」によって初めて成立すると考えられている。そのため、首尾よく事が成就すれば、関係者それぞれが、相手(人)にではなく、神に感謝を捧げる。[3]

では現実にしばしば起こる契約不履行や、責任回避に見える行動は、どう説明すればよいか。

彼らにとって契約は神との契約なのだから、本来、契約相手との関係よりも遥かに重要で、実際、その契約の実現に向けて粉骨砕身の努力を惜しまなかったであろう。しかし、何らかの理由で失敗した場合、それは神の思し召し「天命」(定命・カダル)とされる。[4]

個人間、企業間、国家間、どんなレベルであれ、契約、協定、条約等、近代的資本主義世界を支える取り決め、つまり私たちが考える「横の契約」は、より上位にある宗教規範に照らして問題があれば無効にされかねないし、履行に失敗すれば「天命」として、諦めるしかないということになってしまう。

このような訳で、今日、イスラム世界が直面している課題は、国家や個人を宗教に従属させ続けながら「近代化」できるのかということでもあるから、根本的に、西欧的な「近代化」の概念規定では処理しきれない問題を抱えてしまうのである。

 

基本的に脱宗教化されていないと見られるイスラム世界では、信仰をただ心の中に抱くだけでは、ムスリム社会の一員として認めてもらえない。周囲の目に見える外面的行動、具体的には、コーランをはじめとして幾つもの聖典=法源からなるシャリーア(イスラム共同体の法規範)の実践に勤しまなければならない。

イスラムは、ムハンマド(マホメット)に、唯一絶対の神アッラーから約二十年間にわたって啓示=神の意志が降臨したものを集大成、コーランとし、法の源としている。この最高の法源から、啓示理解のための参考資料ハディース、法学者の議論であるイジュマー、過去例から推論して現実の問題に対処するキヤース等々が派生し、全体としてシャリーアを形作る。

シャリーアとは、コーランを金科玉条としつつも、その下で、現実に人が置かれた状況に対する或る程度の解釈の自由や対応の柔軟性を、システム化したものである。このシャリーアによって、諸個人の内面も外面も拘束される。

ただし、そうした外面的行動の出来不出来の解釈や運用については、地域レベル、国レベル、宗派レベル…と実に大小様々な集団で異なるため、実際のイスラム世界は多様である。

しかし「イスラム国」の特徴は、この多様性を否定し、イスラム世界の純化を暴力的手段で、しかも合理的方法によって実現しようとしているところにある。言い換えれば、彼らは、欧米流の「近代観」からすれば「前近代的な社会」を、逆にかなり「近代的な方法」によって作ろうとしている。

 

ロレッタ・ナポリオーニによれば、イスラム国は多くの点でこれまでの「武装勢力」とは異質であり、例えば次のようなことが指摘されている。

○「イスラム国」の「決算報告書」が見つかった。卓越したビジネス感覚を持ち、自爆テロ一件ごとの費用にいたるまで詳細な収支を記録し、高度な会計技術を使って財務書類を作成している。[5]

○天然資源に隣接した戦略拠点を押さえ、地元のスンニ派部族を被征服民ではなくパートナーとして取り込み、共同で原油の採掘と密輸を行って、誠実で公平なイメージを植え付ける。[6]

○バーチャル・コミュニティを活用し、世界各地から志願兵や資金を募るスキルを持つ。[7]

○孤児のための相談所を設けて養子縁組を仲介。医療活動を展開し、ポリオワクチンの接種も推進。電力需給の管理、送電線の敷設。道路の補修、バス輸送、郵便局の運営。救貧センターの設置等々。こうした公共事業財源を密輸やテロビジネスにより確保し、住民からの搾取を不要にした。[8]

○他の多くの武装組織と異なり、戦士に対する報酬はシリアやイラクの肉体労働者階級よりもはるかに低い。[9]

○音楽と娯楽のあるイスラムの夏祭りに住民を招き、男も女も子供も市民として迎え入れる姿勢を示し、民間人の間で正統性を確保しようとする。[10]

○戦士と地元スンニ派の女性を結婚させ、征服側と被征服側の間に血縁関係を築くことにより、制圧地域内の反感を抑えようとする。[11]

○数十年に及ぶ混乱、戦争、破壊、公務員や警察官や政治家の腐敗に晒されてきたシリアとイラクのスンニ派の人々の溜飲を下げるため、地元住民に対しては庇護者役を自認し、官僚組織を整備、イスラム法廷と移動警察を備え、住民を守るための報復や刑罰は冷酷に、かつ公開で行う。[12]

 

こうしたことが事実ならば、彼らは「本気」で宗教に立脚した国家の建設を目指し、その方法論も研ぎ澄ましてきているようである。

 

(番外編 「イスラム国」(2)に続く)

 

【脚注】

1小室直樹『アラブの逆襲』166175179180193196頁・光文社(1990年)では、 次のように述べられる。

 「「福音書」と「コーラン」とでは、その構成がちがっている」。「「福音書」に規範(戒律)はない。人間の外面的行動に関して、ああしろ、こうしてはいけない。かかる命令(禁止)は、ひとつも記されていない。これに対し「コーラン」は規範(戒律)だらけ。いたるところに、外面的行動に関して、ああしろ、こうするなと、具体的に、記載されてある。」

 「福音書にも新約聖書のどこにも、人間の外面的行動に関する命令(禁止)は与えられていないから、キリスト教は社会規範を与えない。まして、法律は与えない。キリスト教においては、カトリック教会内部における教会法すら福音書が与えたものではない。いわば、一種のローマ法である。福音書は、規範、法律を与えないから、キリスト教がローマ帝国の国教となった後にも、俗界のルールたるローマ法はそのまま残った。その後、ゲルマン人によって西ローマ帝国は滅ぼされたが、カトリック教会は残った。中世ヨーロッパ社会においては、カトリック教会内はローマ法で、カトリック教会外はゲルマン法で支配されることになる。」「ローマ法もゲルマン法も、福音書が与えたものではない。教会内のローマ法と俗界のゲルマン法から近代法が生まれてくる。近代法もまた福音書が与えたものではない。このように、キリスト教国の法律は、福音書が与えたものではない。福音書(および新約聖書の他の部分)は、法源とはなりえない。」「キリスト教は、啓典宗教ではある。しかし、キリスト教国家においては、啓典は法律を与えない。イスラム教国は、これとはまるでちがう。イスラム教は、啓典宗教である。イスラム教国家においては、啓典が法律を与える。すなわち、イスラム教国では、啓典が法源である。」

 「イスラム教の教義(ドグマ)は、この世に法律をもたらすことにある。「コーラン」を機軸たる第一法源として、第二法源「スンナ」第三法源「イジュマー」以下を従えて、法律によって、人びとの行動をあますことなく制御しつくすことにある。これこそ、イスラム教における救済(サルヴェイション)なのである。ゆえに、イスラム教における救済とは、究極的には、法律を守ること。これにつきる。勿論、ここに法律とはイスラム法(シャリーア)のことである。イスラム法(シャリーア)以外の法律(正確にいうと、イスラム法に本源の根拠をおかない法律)なんか、イスラム教の立場からすると、てんで、法律とは看做されないのである。」

[2] 小室直樹『日本人のためのイスラム言論』418420頁・集英社インターナショナル(2002年)

[3] 小室直樹・前掲書(2002年)420423

[4] 小室直樹・前掲書(2002年)423425

[5] ロレッタ・ナポリオーニ『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』(村井章子訳)38頁・文芸春秋(2015年)

[6] ナポリオーニ・前掲書7677

[7] ナポリオーニ・前掲書120

[8] ナポリオーニ・前掲書8182

[9] ナポリオーニ・前掲書79

[10] ナポリオーニ・前掲書9596

[11] ナポリオーニ・前掲書9698

[12] ナポリオーニ・前掲書9496