瞑想というと、一生懸命に気づこうとする人たちがいる。
例えば、ヴィパサナ瞑想では、呼吸に気づこうとする人たちがいる。
しかし、気づこうとするその思考が邪魔なのだ。
思考こそが、意識の邪魔をしているだ。
気づいているのは、本来の在り方なのだから。
それは、すべてに気づいている。
そして、応答している。
ただいかにして、本来の在り方へと戻っていくかが必要なだけだ。
しかし、思考が悪い訳ではない。
なぜなら、感情を抑え込み、溜め込んだ結果、
蓄積された感情が壁となり、
意識がその壁の中に捕らわれた結果、
思考が意識の代役を果たしているのだから。
解決は、気づこうとするのではなく、
既に、すべてに気づいている意識に気づくこと。
そこに戻っていくことである。
それだけでは、まだ充分ではない。
なぜなら、意識と思考が、感情の壁によって分かたれたままだから。
そのような状態では、
意識に気づいているか、
思考と同一化しているか、
のどちらかを行ったり来たりしてしまう。
この壁が溶けて消えていくなら、
思考は、意識の道具としての本来の在り方へと戻っていく。
その時、思考はとても有能な道具となる。