HE 10・11:災いのもとは何だったか | 藤原の田中のブログ

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(災いのもとは何だったか)

当然、歴史家はこの謎の鍵を発見するのに苦労してきた。それは従来からいわれてきたように、多数派のリーダーたちがあまりにも急いていて、彼らは統治に対する絶対的コントロールを得ようと急ぎ過ぎたのであり、最近の譲歩の結果が平和的に発展する時間を与えなかったということなのだろうか。そして、それは少数派のリーダーたちが、改革のためにもう十分なことがなされた、チャールズはこの変化した条件下で、統治機構を重んじながら統治を行うと信頼できると考えたということなのか。国王の北方巡行の開始後、最初の2週間で議会で行われた討論を研究した者は、これらの結論のどちらもなかなかとろうとしないだろう。どちらの党派の者も、主権者にプレッシャーをかけ、王国の要塞を確保し、さらに軍隊を議会の求めに応じていつでも動けるようにするための準備をするのにやぶさかではなかった。もしも統治機構に関する問題以外は何の問題も争点になっていなければ、あるいは、スコットランドからの脅威がもう少しはっきりとしており、もう少し長く続いていれば、貴族院と下院議会は完璧なる一致でもって、6ヶ月後には1つの党派の勝利でしかなくなる民兵隊法案を通過させたであろう。それはすでに彼らが、議会によって同意されたアドバイザーを国王によって選ばれたアドバイザーに代えようというピムの提案を支持することで協調し合ったときのように確実なことである。次の数年の歴史は、もしも国王が完全に屈服していなければ、1688年の時と似たような状況になっただろう。チャールズは団結した人民の放棄によって飛ばされていたであろう。内乱などというものはなかったであろう。なぜならば、廷臣たち(彼らだけが国王の側に立ったであろう)は国民と戦争するほど数が多くなかったからである。