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とうとう「その7」だよ「誰かのために」。誰のためだよホントこれ。
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秋元康は、作詞をする時に「自分の身をひとつも切ってない」と、岩崎"もしドラ"夏海は語った。
「自分が語りたい」言葉ではなく、「ファンが聞きたい」言葉、「歌手が歌いたい」言葉を書く、というのは、プロの作詞家としてとても正しいことだと思う。
注文を受ければ「脱原発」の歌くらいちょろちょろっと書いちゃうだろう、それも「原発賛歌」を書いた翌日に。それがプロだ。それは決して恥ずべきことではない。プロが恥ずべきは売れないことだ。
でもその言葉の中に、秋元はホントにいないのだろうか?
秋元は、副学長を務める京都造形芸術大学のホームページで、
と前置きした上で、「芸術家とそうでない者の違い」について次のように述べている(原文に改行を加えました)。私は芸術家ではありません
確かにいささか極端だがわかりやすい「芸術家論」だ。(2つあるレストランのうち)1つのレストランでは、シェフが”自分が作りたい料理”を作っています。心の内から湧き起こる創作意欲がメニューを決めています。そのレストランがどこにあろうが、前をどんな人たちが通り過ぎようが気にしません。
もう1つのレストランでは、シェフが”みんなが食べたい料理”を作っています。一人でも多くの人たちに食べて欲しいと思っているので、店のロケーションや前を通り過ぎる人たちを観察しながらメニューを決めています。
いささか極端ですが、前者が ”芸術家” であり、後者が ”芸術家ではない人” だと思っているのです。
ここでも秋元は、自分は芸術家ではなく、それゆえに「自分が作りたい」ものではなく、「一人でも多くの人たち」の口にあうものを作ってきたという。
でもねえ秋元シェフ、どんなに自分を抑えて人々の口に合わせようと料理を作っても、そこには紛れもなくあなたの「味」がちゃーんと出ちゃうんですよ。あなたが芸術家であろうとなかろうと、僕は、その「味」が好きだった。
芸術とは、つくる人のありようだけではなく、むしろそれを受け取る人との相互作用の中に生まれる。
井戸茶碗を焼いた朝鮮の陶工は、それを倭国の国宝にしようと土を捻ったわけではないぞ。
「文は人なり」。何しろ「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をも慰」めっちゃうほどのチカラが歌にはあるんだもの、そこに「その人」が出てこないわけがない。
1991年に僕は「情けねえ」に心を震わせた。それは本当のこと。
芸術とは言わないけど、身過ぎ世過ぎ以上の何かがそこには確かにあった。
あの時秋元康は、世界に向かって声をあげるにはまだ若すぎた。年若い才人にありがちな含羞や自己韜晦もあったろう。斜に構えた薄ら笑いで守らなければならない弱さを、自分の中に抱えていたのかも知れない。
でもおのれの言葉の力はもう知っていたはずだ。
知っていてその切れ味に恐れをなしたか、または切り方に迷いがあったか。振るった言葉の刃をことさらに鞘に収めようとした。
それにしても、戦争に直面して右往左往する日本に対して
とは、ついほとばしってしまったにせよあまりにも鋭すぎる切っ先であった。
それから20年後、日本を襲った文字通り未曾有の災害を前にして、秋元はもう一度世界に向かって語った。
薄ら笑いの代わりに穏やかな微笑をたたえて。
傷ついた人々にそっと寄り添うように。
何の衒いも気負いもなく。他人を責めることもなく。
静かに実直に自分の決意を語った。
ここでも彼は「自分の身をひとつも切っていない」?
馬鹿言っちゃいけない。ホントにそう思っているのなら、製品の品質管理に関するドラッカーの著作を100回読み直した方がいい。
もっとも、ドラッカーなど読まなくても、たかみなに聞いてみればそんなことはすぐにわかる。
高橋みなみとはAKB48のことであり、AKB48とは創造神兼破壊神アキモトそのものである。
AKBを切るとたかみなとアキモトから赤い血が出るんだぜ。
そうだろ たかみな?
だからみんな、あの冴えないおっさんに夢を預けてるんだろ?
そして「誰かのために」。
やっと帰って来たね。いったん2011年まで飛んで、やっと懐かしの2006年だ。あともうちょっとだ。世界からすべての/争いが消えて
ひとつになる日まで/私は歌おう
愚かな戦争を/ニュースで観るより
声が届くように/私は歌おう