戦後70年談話に関する有識者会議が、報告書をまとめ、
植民地支配や侵略、反省の表現を記載したが、
謝罪については言及しなかった。
談話に関しては、近隣諸国の視線がどうか、といことが、
議論の対象になるが、アメリカをはじめ、
全世界が注目していることを忘れてはいけない。
だからと言って、信念を曲げてまで、
世界受けを良くしようとなってしまっては、
心なくして共感は得られない。
戦後70年、日本が何をしてきたか、
これからはどうしていきたいかを、
他国の評価を気にせず、中身を決めるべきであろう。
報告書の中身は、その視点で言えば、
非常にバランスのとれたものと言える。
謝罪を重ねてきたことにも触れ、
中国共産党政権が、過去の日本軍をあたかも現在のように
国民に印象付けることや、韓国が次から次へと
済んだことを蒸し返していることを、
暗に示すことも重要だ。
一方で、安保法制をめぐる議論で国内の賛同が
得られていない原因は何か、それも考えねばならない。
国民の過半数が反対なのは、法そのものではなく、
運用でいかようにでもできる、それこそ、
法的安定性を書いており、それを追認するかのような言動を
安倍首相が繰り返しているから、ということを、
自覚しなければならない。
最たるものは、中谷防衛大臣が
「法文上は核兵器も運搬できる。」と明言したことに対し、
「総理の私がないと言っているのだから絶対にない。」と
野党の質問を突っぱねたことだ。
総理がない、と言ったところで、その総理を制御する法律が、
そのようになっていない以上、理論的可能性は残す。
「絶対にない」のなら、法律で制限する条文を何故置かないのか。
将来の運搬の可能性を残して置きたいからだ、と
指摘されても、反論はできまい。
法治国家は、法令に書いてあることがすべてだ。
それを放棄するのは、法治国家の総理がすることではない。
世界中が、そのような中で注目している談話だ。
外交は、如何に見方を多くするかが勝負だ。
近隣の数少ない国より、200カ国の国際社会に受け入れられるよう、
談話の文言だけでなく、普段の言動も考えるべきであろう。