今年も健康記念日を迎え、
改正を訴える人たちと、堅持を訴える人たちに、
はっきり色分けされた。
双方の主張を聞いていると、どちらのもどうも違和感を感じ得ない。
そもそも憲法とは、国民全員が政治の全てに参加するのが
物理的に不可能だから、代表者を決めて政治を行われるにあたり、
どこまでその権力を認めるか・制限するかを予め決めておくものである。
だから、国権の最高機関である国会やその中から選ばれる
総理大臣をトップとする政府、そしてその政府が長官を決める
最高裁判所について、権限が決められている。
だから政治は憲法を逸脱したことはできないのだ。
同時に、国民に保障されるべき権利も羅列されている。
そして国会や政府がそれを保障するための施策をしなければならない。
我が国の憲法では第9条に、戦争の放棄が定められている。
改憲、護憲とも、それだけに目が行きがちで、
本来国民に保障される権利が、今の憲法で
国民が守られているかどうかの議論は、わきに追いやられている。
それだけでも違和感を感じる。
さらにもっと違和感を感じるのは、
改憲派、護謙派の根拠である。
改憲派は、外国から押し付けられた憲法だから
自主憲法の制定を、と言う。
確かに、占領下で国家主権が制限されている中で、
占領国主導で考えられた案が、制限主権の中で、
明治憲法を改正する形で出来たのが現在の憲法である。
外国から押し付けられたという想いは分かるが、
それより重要なのは、押し付けられたものでも、
主権回復後の国民がそれを納得して改正しないのなら、
それがベストなのではないか。
外国から押し付けられたから変えろ、というのは、
主権者の国民の気持ちを考えていない、論理の飛躍なのである。
対して護謙派は、何が何でも9条堅持、を錦の御旗にしている。
確かに70年日本は戦死者を1人も出していない。
果たしてそれが9条によるものなのかどうか、
分析した結果なのだろうか。
憲法上の国民の権利を保障するために9条が引き続き必要なら、
それを納得できる説明が、残念ながら聞かれない。
国民の権利保障を守る本来の目的ではなく、
9条を堅持することが目的になっているような気がしていならない。
今後憲法をどうするか、改憲派、護憲派とも、
現在の日本を取り巻く状況、日本人の生活、
そして国の目指す未来の形を議論することが先ではないか。
初めから結論ありきでは、いつまでたってもいまのままで、
今後必要な国民の権利保障がおろそかになってしまう気がしていならない。