「ロック」を脳髄で聴いちゃあおしめえよ | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

友人の「S」から以下のようなメールを貰ったので紹介します(本人承諾済み)。

 

「S」からは以前にも、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞に関して舌鋒鋭い意見を頂きましたが、今回のは辛口批評で知られるロッキング・オンの渋谷陽一氏さえもびっくり仰天しそうなコメントですが(笑)、Sの言葉にはある種の真理が含まれているのではないでしょうか。

 

 

転載開始

 

 

相対主義に観る戦後日本の観念的断層 ~確信の危機~

 
のブログ(記事)はなかなかいいね。
 
俺は60年代は肉体の底からほとばしる怒りが創造のエネルギーになっていたと思う。
 
それが、70年代、当時クロスオーバーといわれたフュージョン音楽の誕生あたりからロックもジャズも暴力性を忘れて、ひたすら西湘バイパスで心地よくドライブするのに合うようなサウンドになってしまったのだ。
 
確かにテクニックは上達し、様々なバリエーションを生むことができたけど、ビートルズに象徴されるように、ライブの荒々しさからスタジオにこもって知性でコントロールする音楽に成り下がってしまったのだ。
 
そのようないい子ちゃん傾向に嫌気がさした連中がパンクをやったと思うけど、パンクですら商業に取り込まれて、60年代的な熱さ、力は持てなかったと感じている。
 
80年代になり、マイケルやマドンナがディズニーランド的エンタテインメントで集団オナニーをさらに進展させた中で、やはり反動としてニルヴァーナに代表されるグランジ的動きが出てきたと思う。
 
文学も同様で、自分は「田んぼから渋谷へ」って言い方をするんだけど、あとは「拓郎からユーミンへ」
でもいいけど、要するに土のあるところで思い切り身体を動かした時代から、港の見える丘公園の喫茶店でコーヒーを飲みながら貨物船を見て寂しさを紛らわしている時代になってしまったと思うのだ。
 
中上健次が田んぼの最後とすると村上春樹、村上龍は都会の始まりって感じがするね。汗のにおいや、土ぼこりや虫の鳴き声、子供の叫び声なんかがないんだよね。
 
そんな中でしばらく前に芥川賞を獲った「西村賢太」はいいよ。ワイルドで正直で、小心で、スケベだ。
 
転載終了
 
音楽は好みの問題ですから、「暴力性」のあるなしを物差しとして楽曲の良し悪しを決める訳にもいかないでしょうが、スタジオ録音の、器用ではあるが弾けるようなダイナミズムがないというところに着目すれは、Sの言い分をいかほどか認めたいですね。
 
エンジニアが小さなノイズや音程の狂いやハウリングを修正するぶんには一向に構いませんが、イコライザーで不自然に音をいじったりオーバーダブ(MTRを使った多重録音)を多用したりするところまでくると、それは人工的な理念で合理的にものをこしらえる「設計主義(コンストラクティヴィズム)」の誹りを免れません。
 
宣長的に言うなら、それは「生きた知恵」ではなく、「死んだ理屈」とも言うべきものであり、私たちが欲しているのは「生きた音」であって、ロッカーたるべきもの、狭いスタジオにこもり哲学者ヅラしてシコシコやるべきではないのではないでしょうか。
 
ウィキペディアで「渋谷陽一」と検索してみたら、誰が書いたものか知らないが、驚くべきことに、「「ロッキング・オン(渋谷氏が発行する音楽専門誌)」は外来思想としてのロックを日本の風土と日常生活の中に根付かせようとする一種の思想運動だったと言える」などといった「パア」な言説に出くわした。
 
「情(心)」ではなく、「脳髄」でロックを聴いてしまうとこういうバカなコメントしか書けなくなるということのいい見本です。
 
ロックとは思想ですか?
 
違うでしょう。ロックというものはマルクス主義のような科学的に体系化した理論に基づき、脳髄で理解するものではなく、「情(こころ)」で聴くものでしょう。
 
そんなこと言ったらあなた渋谷さんに怒られますよ?
 
もし、脳髄に心が入っているなら、我々は「脳」と「ハート」といった二つの観念を持っていることの説明がつかないじゃないですか。脳髄一つでいいじゃないですか。
 
戦後横溢した「近代主義=理性中心主義」は、音楽を批評する者までを、似非インテリゲンチャごときの理性で評論する者を生み出した。
 
「ロック」を脳髄で聴いちゃあお仕舞いですよ。