誤解された「反骨精神」 | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

「反骨の精神」こそがロックの真骨頂であることはその通りですが、この「反骨」という言葉ほど誤解された言葉はないでしょう。

 

社会への反骨、政治への反骨、学校教育への反骨、親への反骨といったように、若者が抱く、権力というものに対するアプリオリな反骨精神を私は認めたいと思う者ですが、その中にもう一つ、「おのれ自身への反骨」を加えて頂きたい。

 

つまり、自分を客観視し、「おのれは一体いかなる分際なんだ?」という自身への問い掛けなくして、ただ、社会や政治や教育や親に対してのみ、不平不満を言うのはニーチェの言った「弱者のルサンチマン」であり、「俺はどこも悪くないんだ、悪いのは社会なんだ」というのは、戦後瀰漫した「個人の尊重思想」がもっとも悪い形で露呈した言説のように思います。

 

ローリング・ストーンズのギタリスト、キース・リチャーズにしてもエアロ・スミスのボーカリスト、スティーブン・タイラーにしても、外観こそ「ワル」で「アナーキー」で「反社会的」に見えますが、実際の処、彼らのインタビューなどを聞くと、彼らは実に常識人であり、キースなど「ヤクでオツムがいかれた狂人」かのように思われていますが、彼は理性的に話ができる男だし、また実に頭がいい。

 

つまり、ロッカーという職業上、彼らは「ワル」や「アナーキー」を演じていただけなのですが、彼らのそういう可視的な上澄みだけをたっぷりとすすった日本の若者は、彼らの外観と中身を混同してしまった。

 

団塊世代を中心とする戦後左翼の中心的思想には、「悪いのは俺たち以外の全てなんだ」といったジョン・ロック的な啓蒙思想、その産物としての人権思想が横たわっているように思います。

 

確か、小林秀雄が、パスカルの「人間は考える葦である」という言葉の理解を、人間とは葦のように弱い存在なんだ、人間とはそういう他愛のない分際であるということを忘れずにモノを考えるべきなんだというふうに解釈していましたが(学生との対話)、私も同感でして、おのれ自身への反骨精神を失念した若者に対し、「反骨」してみたい(笑)。

 

お話を音楽に戻しますが、何も私は商業ロックやスタジオ録音を全否定するわけじゃなく、われわれが欲しているのは人工的に作られた「こしらえものの音」じゃなく、感情から自然に生まれてくる「生きた音」であり、「売れる音楽」や「完成された音楽」を目的にまで高めてしまえば、そりゃあレコード会社やミュージシャンの満足は得られるかも知れないが、おれたちアマチュアのリスナーにとって大事なのは生の躍動感でありアーティストの息遣いであり、ちっぽけな音の狂いなど俺たちのお粗末な耳には気にならねえのさということです。

 

友人の「S」が、「田んぼから渋谷へ」とか「拓郎からユーミンへ」という面白い表現をしていましたがなかなか上手い比喩ですね。

 

思うに、中島みゆきが壮大なオーケストラだとしたら、ユーミンはイージーリスニングあるいはBGMでしょう。

 

両人ともに商業的には大成功を収めましたが、私ごときがジャッジするとユーミンファンから睨まれそうですので止めておきましょうか(笑)。