福田恆存 | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

私の友人(某 文化チャンネルの後援会の初代会長)に、恐ろしく旧漢字、旧仮名遣いの達者な方が居ます。

 

その友人の前で、「旧仮名」などとうっかり言いますと、「歴史的仮名遣いと言ってくれ」と怒られますが(笑)。

 

もちろんその方も戦後生まれですから、リアルタイムでそれらを使っていたわけではなく、おそらく何度も何度も失敗を繰り返し、人から笑われながら、やっとこさの思いでそれを文章に使用するに耐えうるだけの「形(フォルム)」にしてきたのでしょう。

 

実は、あっさり白状すれば、私も旧字体に憧れて、見よう見まねで使ったことがありましたが、すぐにあきらめました。

 

その理由は何も「保守は人工的ではなくオーガニックでなければならない」などといった斜にかまえた理由からではなく、単純に難しかったからです。

 

例えばですが、「そういうこと」を旧かなで表す場合、正しくは「さういふこと」となるのですが、慣れないうちに無理に旧かなを使うと、「さふいふこと」とやってしまうのですね。

 

そこには自然ではなく人為が入りますから、ついつい「やり過ぎ」てしまうのです。

 

この「やり過ぎ」を抑えるのが一番難しい。

 

福田恆存は、近代文学と古典との文化的連続性を担保するには、旧かな旧漢字は絶対に欠かせない、という保守的な立場から、一貫して旧かな旧漢字づかいでの文体を崩しませんでしたが、物心ついたときから旧字に親しんできた、(というより当時はそれが正字でした)恆存ならともかくとして、戦後生まれの、それも、マル系の優秀な先生方(笑)から、戦後民主主義の毒をたっぷりと飲ませて頂いた我々世代が、人工的な理念で旧仮名旧漢字を使うのはそれこそ設計主義であり漢意(からごころ)というものです。

 

ここで、ちょっとだけ福田の秀逸な言葉を紹介しませう。

 

福田恆存: 保守的な態度といふものはあつても、保守主義などといふものはありえない。保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではないし、またそんなことは出来ぬはずである(略)。保守派は無智といはれようと、頑迷といはれようと、まづ率直で正直であればよい。知識階級の人気をとらうなどといふ知的虚栄心などは棄てるべきだ。常識に随ひ、素手で行って、それで倒れたなら、そのときは万事を革新派にゆづればよいではないか」(福田恆存 「私の保守主義観」)。

 

 

なるほど、御意にございます(笑)。