「観念的枠組み」との決別法 | 真正保守のための学術的考察

真正保守のための学術的考察

今日にあっては、保守主義という言葉は、古い考え方に惑溺し、それを頑迷に保守する、といった、ブーワード(批難語)的な使われ方をしますが、そうした過てる認識を一掃するため、真の保守思想とは何かについて、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。

本ブログでも何度となく取り上げた保守思想家の西部邁は、近代とはモード(流行)であり、モードとは(プラモデルなどと同じ意味の)モデル(型)であり、近代主義(モダニズム)とは、ある一つの観念の枠組み(模型化したイデオロギー、固定観念)に人間精神を押し込み、その枠組みの中でしか思考が働かなくなった者が陥る不治の病であると言います。

 

人間とは合理的(この場合、俗にいう効率性とか利便性いった意味ではなく、人間の無謬性を信じる進歩主義的な意味でいうもの)な生き物だから、歴史とか伝統といった過去の遺物などに頼らずとも、現代世代の理性だけで理想の社会が設計できるんだと、傲慢に構えるのが近代主義者です。

 

これまで取り上げてきた「漢意(からごころ)」というのもそれです。

 

「戦争は嫌だ」という固定化(モデル化)された観念があるとします。

 

まあ、戦争体験者がそのトラウマで、あるいは、羹(あつもの)に懲りて膾(なます)を吹くがごときに「平和」をいうなら、まだわからないでもないですが、戦後70年もの長き間平和の安寧にまどろんできた戦後生まれまでが、そうした固定化した観念だけで「平和」をいうのは、精神病理学の用語でいう「自動症(オートマティズム)」であり、平和あるいは戦争というものに対する考え方は時・処・居(TPO)に応じて柔軟に思考すべきだ、という「常識」が欠落した者などは、思考が硬直したモダニスト、あるいは、カルテジアン(他人は疑うが自分は決して疑わない・・・「我思う故に我あり」のデカルト主義者)とでもいうべき者たちです。

 

たまたま、戦争と平和を例に出しましたが、他の事案に置き換えた場合、皆さんにも思い当たる節がありませんか?

 

「この教えは真理です」とか、「人間こうあるべきです」とか、「私を信じなさい、絶対損はさせません」とか、「極楽浄土を信じればあなたは必ず救われます」とか。

 

それはあなたが勝手に決めたことでしょう。

 

王権神授説じゃあるまいし、極楽浄土が自然にありますか?

 

極楽浄土などというものは「人権」と同じように人間が理性でこさえたものでしょう。

 

翻って、このブログの中心にある「保守思想」と言いますのは、人間理性の限界説という立場に立ち、人間とは永遠に不完全な動物であり、永遠に完成しない生き物である以上、長い時間の効果によってその正当性や正統性が付与された伝統の知恵に基づいて、法律なり社会制度なり国防なりを考えていこうじゃないかと構えます。

 

伝統の知恵とは、認識におけるもっとも確かな判断基準であり、実践におけるもっとも確かな根本規範であるということを保守思想は知悉しているのだ。

 

つまり、私たちが狂気の海に漂流したくないとそう望むなら、好むと好まざるとに関わらず、人間誰しも保守思想家たらざるを得ないのです。