「天壌無窮」 

 孝明天皇


神わざの天の御矛(みほこ)のしづくより
   なりにし國ぞすゑは久しき


(嘉永七年)


 この御製は、黒船來航により混亂する國民の心を少しでも和らげんとされて作られたものに感じます。

 日本といふ國は神によつて使命を担つて作られた國であるから、滅びる譯がない。

 そう國民に語りかけてゐるのです。

 この和歌は『古事記』日本書紀の一節が歌い込まれてゐます。


 孝明天皇は、幕末に於ける日本の危機を察知し、國民に其の危機を知らしめた天皇であるといへます。

 ペリーの黒船が浦賀に來航した時、お作りなられた御製は


「あさゆふに民やすかれとおもふ身のこころにかかる異國の船」


ですが、この御歌より幕末維新が始まつたと言つても過言ではありません。

 紀貫之が『古今集假名序』で


「天地を動かし、鬼神を泣かするものは歌也」


と言つたやうに、この孝明天皇の御歌は歴史を動かしたのです。

 何故ならば、幕末尊皇攘夷志士達の心を奮はせ奔走することで、あの世界の奇跡とも言はれて居る明治維新の道は、この御製から始まります。

 和歌の眞髄は茲にこそ在るのではないかと私は考へてゐます。

 しかし、この嘉永七年は、歐米諸國の來航により、國民は動搖を來たします。

 それに對して孝明天皇は、日本は神によつて作られた國であるから決して滅びることなどはない、永遠に續くと言つてをられるのです。

 もう一つ、この「すゑは久しき」といふ言葉には、「天壌無窮の御神勅」の意味が籠められてゐます。

 天壌無窮の御神勅とは何か。

 それについては、私の『皇道の本義解説』の中で詳しく陳べさせて戴いて居ますのでご覧になつて頂ければと思ひますが、一部を抜粋してみますと次の通りであります。



「因勅 皇孫曰 豊葦原千五百秋之瑞穂之國是吾子孫爲王之地也、爾皇孫宜就而治焉 行矣 寶祚之隆 當與天壌無窮矣」


(讀み下し分)

「因りて、皇孫(すめみま)に勅して曰く、葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が子孫の王たるべき國也。いまし皇孫、いでまして治らせ。さきくませ。寶祚の隆へ、當に天壌と窮まり無けむ。」


 この御神勅は、『日本書紀』巻第二神代下 第九段に出て來るもので、天孫降臨に當り、天照大御神が、皇孫天津彦彦火邇邇藝命(あまつひこひこほににぎのみこと)に三種の神寳(しんぽう)を賜はり、勅された御神勅である。

 この御神勅には、深淵廣大なる意義が含有してゐる。


 一般的な文章解釋では次の通りである。


「この日本の國は、私の子孫が君主たるべき國である。さあ、皇孫である瓊瓊杵尊よ、あなたが行つて、しつかりと治めなさい。天津日嗣(天皇)は、天地と共に限りなく榮えるでせう。」


 この直譯だけでは、この御神勅の深淵廣大さを感ずることは難しい。

 天壌無窮が何故深遠なる眞義かを、この一節を元にして解説してみたいと思ふ。

 さて、ここの一節に於て「就而治焉」とある「治」の意義が最も重要である。

 この「治」は「しらす」と訓むべきで決して「をさめよ」と訓(よ)んではならない。

 この「治」を「をさめよ」と訓む者が居るが「をさむ」とは、亂れた状態を平かならしむることをいふのである、「しらす」とはもっと深遠なる義が含まれてゐる。


 本居宣長翁は『古事記傳』巻七に於て、

「これ君の御國治め有座(ありま)すは物を見る如く、聞くが如く、知るが如く、食(をす)が如く、身に受け入れ有(たも)つ意あればなり、此次に所知看(しろしめす)とあるも知り見ると云ふことにて同意なり」

と述べて居る。

 宣長翁がいふやうに「治」は「所知看(しろしめす)」と同意なのである。

 『古事記』に於ける「治」は音韻や意味などから漢字を當て嵌めてあるので、この「治」といふ漢字に捉はれてはならぬ。

 「しらす」は日本獨特の語で、原語は「しる」であり「知る」ことをいふ。

 この「しらす」といふ語には「統治」といふ意味も當然含まれてゐる。

 現代に於ける統治の意味は「私有、領有、占有」などになるのであるが、しかし、天壌無窮の神勅に於ける「しらす」つまり「統治」の眞義は


「神が萬有を生成化育する如く與へて求めぬ至公至平、世界無比なる天皇政治の根本精神」


を示してゐるのである。

 「しらす」は「知る」の延長である。

 他を「しらす」爲には、先づ自ら「知る」ことが必要となる。

 萬有を統一同化主宰して、これを生成化育するには、その淵源を知り、現状を見て、將來を予見して、内外顯幽に亙り、これをよく知らなければならぬ。

 よく知らざる限り、萬有をして各々處を得せしめ、生成發展させることなど出來る譯もない。
 

 「寶祚」は「あまつひつぎ」と訓む。

 古書によつては「天津日嗣」或は「天津日繼」とも書いてある。

 又「天皇位」と書いて「あまつひつぎしろしめす」と訓ませる例もある。

 これは天照大御神の御座(ぎよざ)を高御座(たかみくら)又は高御位(たかみくらい)といひ、天皇の御位をいふのである。

 であるから、皇位に坐(いま)す御方を皇孫命(すめみまのみこと)、皇命(すめらみこと)と申し、或は日繼(ひつぎ)の御子(みこ)と申し上げるのである。

 人にして神にあらせられるといふことから、現御神(あらみかみ)とも申し上ぐる。

 何故かといへば天照大御神、天之御中主神と三位一體にましますからである。

 天津日嗣(あまつひつぎ)の「天津」は美稱(びしよう)である。

「日嗣(ひつぎ)」にこそ重要な義があるのである。

 「日嗣」とは「靈嗣(ひつぎ)」の義で靈魂相續といふこと。

 宇宙の根本神であらせられる天御中主神の御靈(みたま)を始め、伊邪那岐神、伊耶那美神の二神、天照大御神、更に御歴代の天皇の靈魂と靈魂との相繼ぎて相續されるといふ意味なのである。

 恐れながら天皇崩御の際には、直ちに皇位繼承の儀式「神壐渡御(しんじとぎよ)の御儀(おんぎ)」を執り行はれ、皇太子は踐祚(せんそ)せられて、天皇とならせ給はれる。

 人間の情からいへば、哀愁の極に沈まれ給ふ際ではあるが、一國統治の上より、又世界平和の上より人情に制せられるべきではないが故に、皇孫として直ちに天津日嗣の高御座に踐祚ましますのである。

 この「神璽渡御の御儀」は、正式名を皇室典範の践祚ノ式にある「劍璽渡御(けんじとぎよ)ノ儀」で本來は國事行爲たる儀式である。

 現代では、「剣璽等承継(けんじとうしようけい)の儀」と名前を變へてある。

 劍とは天叢雲劍(あめのむらくものつるぎ)を指し、璽(じ)は八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を示してゐる。

 これは皇位の証として伝わる三種の神器のうち、劍と璽を大行(たいこう)天皇(前天皇)から承継するもので、劍については宮中にある天叢雲劍の複製品を用い、神璽は本物とされる八尺瓊勾玉を用いる。

 同時に國璽(こくじ)と御璽(ぎよじ)の承繼も行われる。

 昭和六十四年一月七日、今上天皇皇位繼承に際しては、昭和天皇崩御直後、同日午前十時一分より皇居正殿松の間で執り行われた。

 國民代表として、内閣総理大臣、最高裁判所長官、衆議院・参議院両院議長の、行政・司法・立法の三権の長、全閣僚などが参列した。

 今上天皇は宮内庁長官らに先導され、皇族を從え、松の間に出御し、参列者に向かい合う形で正面の席に着き、剣璽及び國璽・御璽を侍從が今上天皇の前にある机に置くといふ儀式である。

 そして、即位の大禮、大嘗祭といふ神聖な儀式を經られて眞の天皇とならせ給ふのである。

 これらの儀式の重要性については後述するつもりである。

 世界各國、時の古今を問はず帝王大統領の卽位就任式多きと云へども、このやうに巖肅完全なる儀式が行はれる所は例を見ない。

 彼等はすべて、その國一國の人間的卽位戴冠式就任に過ぎないのである。

 この神璽渡御の御儀と同時に、天皇は天照大御神を始め歴代天皇の御靈が、天皇の玉體に宿り給ふ。

 ここに天津日嗣と申し上げる所以があるのである。

 この御祭事により、皇祖皇宗の御神靈が天皇の玉體に來り宿り給ふ。

 かくて神の延長として人の身となり、人の身として神となつて、始めて天津日嗣の天皇とならせ給ふのである。

 故に神人不二一體の現御神と申し上ぐるのである。

 そして、天皇は、獨り日本一國のみの天皇にあらせられず、世界、宇宙調和の天皇にましますのである。

 何故ならば、我が國は宇宙の眞理によつて開闢し、天地草創の古に起源する。

 皇國の根本中心たる天皇は天照大御神と御一體であらせられると申し上げた。

 天照大御神が無上の御方であらせられる所以は、宇宙生成の根源神たる天之御中主神の御精神を受け給ふた伊邪那岐、伊邪那美二神の御子様であらせられるからである。

 そして天皇は、この天照大御神の精神を承け繼がれておられる御存在なのである。

 この一點を見ても、天津日嗣の天皇は全國家、全世界萬有生成化育の本源であらせられ、宇宙萬有の運行と共に、寸時も間斷なく萬物を光被し給ふ御存在であることがわかるのである。

 天壌無窮の神勅はここが原點なのである。

 ここに悠遠なる國體の本源があり、天皇が人倫を以て律し奉るべきに非ざる神倫の御方であることが明らかとなる。


 茲にこそ、日本の國の永遠性の高貴さと吾等が誇りに思ふ所以があるといへます。

 戰前に於いてはこの天壌無窮の神勅は小學校で敎へられ、國民の總てがその意味を知つてゐたといひます。

 孝明天皇の時代に於ても、多くの國民がこの日本の國の高貴さ素晴らしさを知つてゐたからこそ、欧米色の侵略を何としても防がねばならぬと起ち上がつたといへます。
 


「謙譲の心」 

  伏見天皇


いたづらにやすき我が躬ぞはづかしき
  苦しむ民の心おもへば



 尊貴さとは謙虚さの中にこそ在るといふことがはつきりと表はれてゐます。

 己れをひけらかしたり、自らの行ひを誇つたりしてゐる内は、決して尊貴な存在になれる譯などありません。

 歴史の上面のみをなぞつて、まことしやかに天皇を權力の象徴に仕立て上げた學者の方々はこの御製を深く味はつて欲しいものです。

 「やすき」とは自らが安穏な所に居る事を言つてゐます。

 天皇は決して豪華な生活をして居る譯ではありません。

 しかし、三食を食べられ、住むところもある自らを幸福と感じられ、其の身に引き替えても國民の苦しみに思ひを寄せられることに大きな感動を思へずには居られません。



 伏見天皇は、元冦來襲の後数年後に御即位された第九十二代天皇であります。

 元冦の襲來は、我國は神國也といふ信念を強めました。

 それは、元即ち蒙古は支那の北方より起こり、四方に馬を進め、國あれば國を滅ぼし、土地あれば土地を侵略し、人あれば人を奴隷とし、物あれば物を掠奪し、遂に支那の中央に乗り入れて、名實共に世界統一を目指しました。

 まるで、今の支那と重なるのは私だけでせうか?

 その前進を阻む者は、何處にもなく、滅ぼされる國は數え切れないほどでした。

 しかし、ひとり日本のみは、毅然として彼の要求を退け、彼の脅迫には屈せず、文永・弘安両度の來襲を、物の見事に撃退したのです。

 弘安の役では、元・高麗の十萬の内、生きて還る者は僅かに三人といふ結果は、人々を震駭させたに違ひありません。

 同時にそれは、日本にとつては大きな自信となり、我國は神國也といふ確信にまでなってゆきます。

 しかし、鎌倉幕府にとつては、元冦に於ける事後處理にその權力基盤に翳りが見えてきたのでした。

 元冦時に執権として見事な指揮を取つた北條時宗は、その三年後僅か三十四歳にて亡くなつてしまひます。

 その後の戰後處理などにより御家人が窮乏し、幕府の權力爭いが起るなどして、混亂してしまつた頃に御即位されたのが伏見天皇でした。

 鎌倉幕府は、貧困に喘ぐ御家人救濟の爲に、德政令を發し、借金返濟を免除させる法令を出したのでした。

 しかし、これは又新たな借金が出來なくなるといふ逆効果を招き、御家人は益々苦しむこととなります。

 このやうな中で卽位された伏見天皇は、朝廷による訴訟機構の刷新や記錄所の充實などを行はれ政治的な權威恢復に積極的に勤められました。

 この間一時的ではありますが天皇親政を行はれたとも傳へられます。

 また、皇位繼承に介入する鎌倉幕府に強い不信感を持ち、反幕府的な姿勢を貫き、倒幕の御志もあつたと傳へられます。

 書道に於ても伏見院流の祖でもあられ、和歌に於ても京極流の有力歌人として評價が高かつた天皇です。







(王道政治又は聖の道)

 村上天皇


敎へおくことたがはずば行末の
  道遠くともあとはまどはじ



 この御製は、教え傳へることに違反しなければ、聖人君子に至る道のりがいかに遠くても、彼らの辿つた跡を見失つて迷うことはない。

 ここには、人々の敎化の意味もあるでせうが、終句の「あとはまどはじ」に、御親らに治世の心を常に當てやうといふ強い意志を感じます。將に王道治世の心がこゝには籠められてゐるやうに感じます。

 村上天皇は、天暦の聖代と讃えられた治政を行はれた平安時代初期の天皇様です。

 平安時代は、この國の中世・近世の歴史に於て最も長きに亙り繁榮した時代といへます。
三百九十一年間も續いたこの平安時代の底流に在つた物は何か?

 そして、日本文化も又、この平安時代に和魂漢才といふ考へ方によつて純日本化され、そして成熟し世界に誇れるものとなつた時代でもあります。

 それらについて探求することこそ、この國の眞の蘇へりに缺かせぬと思ふのです。

 結論から申上げますと「その一切は天皇に歸する」といふ事です。

 政治に於ては、天皇の大御心の顯現政治が行はれました。

 それは攝關政治といふ形によつて行はれたのでした。

 攝關政治が行はれなかつたならば日本の天皇制は保たれなかつたかも知れません。

 そして、文化の成熟の中樞には天皇の御存在が常にありました。
 その他宗敎、經濟、思想、それらは天皇體制の中に於て隆盛となつたり、衰頽したりしたといへます。

 更に平安時代は平らかで調和な世の中が最も長く續いたといふことが出來ます。

 つまり平和であつたといふ事です。

 國内に於て戰亂が殆んど起こらず政治の安定が續いて居たのです。

 そして、この平安時代の末期に武士の擡頭が起こり、その後武士權力時代が明治維新まで續きます。

 其の力の萌芽はこの平安時代にこそあります。

 この平安時代は日本文化的に大きな意義を見出せると共に、延喜格式が編纂せられたことは國家經營に於ても大きな意義が見出せるのです。

 この延喜格式は延喜五年(九〇五年)『古今集』編纂の勅命と同時に醍醐天皇より出されてゐます。

 當時の法制に、「律・令・格・式」の區別がありますが、「律」は刑法、「令」は法令で、この二つが原則であり、基本の法律になります。

 それに對して「格」はその時その時の條件に應じてこれを融通するもので、「式」は原則的な法令に洩れてゐる細かい規定を定めたものです。

 その延喜式の一番の特徴は、第一卷から第十卷までは、神祇關係の規定、その後が太政官、八省と續きます。

 卽ち神祇は太政官・八省よりも前にあるばかりではなく、非常に澤山の分量を占めてゐるのです。

 此の事は、我國では神事は一切に優先してゐると云ふ事を表はしてゐます。

 鎌倉時代初期の順德天皇が『禁秘抄』の冒頭に


「凡そ禁中の作法、神事を先きにして、他事を後にする」

と仰せられてゐて、いかに神事を大切にしてゐたかが分かります。


 表面だけ見た時、佛敎全盛であり、壯大なる建築は寺院に限られてゐるやうに見えながら、嚴重なる神事の舊儀は、伊勢大神宮を始めとして三千一百餘座の神社に守られ、殊に伊勢に於ては嚴しく異敎を忌み、そして、日本獨特の風習として遷宮を行ひ、神殿の淸淨を期し、又、出雲大社に於ては十六丈の豪快髙爽の建築を以ておまつりしてゐたのでした。


 さて、今ひとつ重要な事は歴史書である『三代實録』の編纂があります。

 我國の歴史を朝廷で正式に編輯せられたものを正史といひます。

 『日本書紀』がその最初になります。

 その後、『續日本紀』『日本後紀』『續日本後紀』『文德實録』が作られた後を受けて編輯されたのがこの『三代實録』といふ事になります。

 このやうに歴史が編輯せられるといふ事は、國家が意識せられてゐる事を示すものといへます。

 平安時代も中頃迄は國家意識が強く、『日本書紀』の研究が盛んであつたといひます。

 しかし、延喜四年に『日本書紀』の講義が行はれた後は、正史編輯に於ては『三代實録』が最後で作られていませんし、法令の編輯も作られることはありませんでした。

 そして、『日本書紀』の講義は村上天皇の康保二年を最後に行はれてはゐません。

 つまり、これは國民が國を考へるよりも、自分の一身一家の生活を考へるやうになり、國は衰へ、亂れもすることとなりました。


 故に、後世から振りかへつて見ると、延喜・天暦の御代は、光り輝く所の黄金時代として人々の目に映つたのでした。




「元冦②」 

亀山天皇

四方(よも)の海浪(なみ)おさまりてのどかなる
  我が日の本に春は來にけり



《歌意》

 世界中の海の荒く激しかつた波も漸く治まつて、のどかなお正月を迎へる事ができたことに深く感謝致します。


 この御製は、元冦の危機が去つた安堵感に溢れ、喜びに満ちた御歌に感じます。

 蒙古襲来は、日本にとつて歴史上初めての強大な力を持つた外國からの侵略でした。

 そして又、元冦の頃は、武士だけではなく國民總てが國難に起ち向はんと、心が一つになった時期であります。
 特に、僧侶達もこの國難に對して強ひ怒りを持て起ち向つたのであります。

 日蓮上人のお話しは有名でありますので省くとして、臨済宗の宏覺禪師の次の歌はその後も語り継がれるほど國民を鼓舞しました。

末の世の末の末まで我國は
   萬づの國にすぐれたる國


(愛國百人一首)

 この歌は、蒙古より2回目の國使が來朝した時、朝廷の返書は

「我が神國は智を以て競ひ力を持って爭ふべからざる」

といふいかにも強硬な内容で拒否したものでしたが、執権北條時宗は更に強硬で斷然たる態度を以て返書を送ることをしなかつたのであります。

 しかし、その朝議(返書についての朝廷と執権の会議)が外に誤つて漏れたらしく、宏覺禪師は和親の返牒があるとの風評に怒りを持て、悲憤骨髄に徹し、ただ神佛の加護によつてこれを中止せんと、文永六年十二月二十七日から六十三日間祈檮を行ひました。

 その祈願文の最後にこの和歌一首がしたためられていたと言ひます。

 その祈願文は

正傅之を聞く、愁嘆量り無し。
悲しみ骨髄に徹し、・・・
重ねて乞ふ神道雲となり風となり、
雷となり、
雨となり、
破し國敵を摧く。
天下泰平、諸人快樂ならしむる。



 この祈願文は、戦前は國寶となつてゐたさうでありましたが、現在はどうなのか私には分かつておりません。

 しかし、元冦の當時、僧侶に至るまでいかに國を思ふ心が意気盛んであつたかが分かるのではないでせうか。

 ※参考文献 「愛國百人一首評譯」(著者 川田順 朝日新聞社刊)

 このやうに、國民がかうであれば武士は當然の如く更に激しい意氣を以て國難に起ち向つたのであります。


 果して、今の世は如何・・・。



 蒙古來(もうこらい)
   頼山陽

筑海(ちくかい)の颶氣(ぐき) 天に連なりて黑く,
海を蔽ひて來る者は何(いか)なる賊ぞ。
蒙古來る 北自(よ)り 來たる,
東西次第に呑食を期す。
嚇し得たり趙家の老寡婦を,
此れを持し來りて擬す男兒の國に。
相模太郞、膽甕(かめ)の如く,
防海の將士 人各ゝ力(つと)む。
蒙古來る、吾は怖れず,
吾は怖る、關東の令 山の如きを。
直に前み、賊を斫(き)り顧るを許さず,
吾が檣(しよう)を倒し、虜艦(りよかん)に登り,
虜將を擒へて 吾が軍喊(さけ)ぶ。
恨む可し、東風一驅して
大濤に附し羶血(たんけつ)をして
盡く日本刀に膏(こう)せしめざるを。



筑海颶氣連天黑,
蔽海而來者何賊。
蒙古來 來自北,
東西次第期呑食。
嚇得趙家老寡婦,
持此來擬男兒國。
相模太郞膽如甕,
防海將士人各力。
蒙古來 吾不怖,
吾怖關東令如山。
直前斫賊不許顧,
倒吾檣 登虜艦。
擒虜將 吾軍喊。
可恨東風一驅附大濤
不使羶血盡膏日本刀。

意味

 筑前の海の旋(つむじ)風(かぜ)は天を遮り暗く、海面を蔽ひて進み來るのはいかなる賊ぞ。それは蒙古が北方より来たりたる也。元のフビライは東西の此地を呑食せんと期し、先づ趙榮の老寡婦を脅し、その勢ひを持つて我が男兒の國をも呑食せんと欲せしが、幸いに鎌倉の執権北條時宗の豪膽にして、防海の將士の奮戰甚だ勉めるこれあつて皆いふ蒙古の襲來は恐るるに足らず、我れは関東の命令の山の如く重きを怖るるなりと。かくて、勇往直前して我が墻を倒し、これを撃ちて夷の軍艦に登り、虜の大將を擒にして吾が軍は一時に勝ち鬨を上げた。ただ恨むらくは東風大濤を驅り虜觀を覆沒せしめてしまつた爲に、わが日本刀にて盡く斬殺することはできなかつた。


亀山天皇(第九十代天皇)

 元の使者がやって來る

後嵯峨天皇の第七皇子。
 正嘉二年(1258)惨烈を極めた飢饉に見舞われた時期に即位されました。
 更に、元のクビライより國書を携えて使者が來日し、院政中に元冦が起つてゐます。
 全國の神社に異國降伏の祈願を指示すると共に、伊勢神宮に「身を以て國難に代へる祈願」を奉る。  




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「聖德」 (仁德天皇・大和時代)

みつぎ物ゆるされて、國富めるを御覧じて

高き屋(や)にのぼりて見れば煙(けぶり)立つ
  民のかまどはにぎはひにけり
 

《歌意》

 高殿に登つて國の様子を見渡すと、民家からは煙が立ち上つてゐる。民の竃も豊かに榮えてゐるのだなあ。


 この御製は、國民が飢饉で貧窮してゐることを皇居の高殿から民家から煙が立ち上つてゐない事から察せられ、税金を許された後、五年後に同じく高殿に登られてみると、民家からは澤山の煙が立ち上つてゐるのを見られての御歌です。
 後の天皇様は、國民の豐かなことを願ふ指針としてこの仁德天皇の御事績を常にご參考にされたことが多くの天皇様が「民のかまど」の御製を歌はれた事からも分かります。


この御製に於ける逸話


仁徳天皇は即位されて4年目、高台にのぼって見渡されました。
すると家々から炊事の煙が立上っておらず
国民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。
そこで3年間年貢などを免除されました。
そのため天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていました。

そうして3年、気候も順調で国民は豊かになり、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見えました。
国民の生活は見違えるように豊かになりました。
それを見て天皇は喜ばれ「自分は、すでに富んだ」と言われました。

それを耳にされた皇后は
「私たちの住んでいる皇居の垣は崩れ、雨漏りもしているのに、どうして富んだといわれるのですか」と問われました。
すると天皇は
「昔の聖王は国民の一人でも飢え寒がる者があるときは自分を顧みて自分を責めた。
今、国民が貧しいのは自分も貧しいのだ。
国民が富んでいるのは自分も富んでいるのだ。
未だかつて人民が富んで、君主が貧しいということはあるまい」と答えられました。

やがて天皇に感謝した人々が諸国から天皇にお願いしました。
「3年も課役を免除されたために、宮殿はすっかり朽ち壊れています。
それに較べて国民は豊かになりました。
もう税金をとりたてていただきたいのです。
宮殿も修理させてください。
そうしなければ罰があたります」

それでも天皇はまだ我慢してお許しにならなりませんでした。
3年後にやっと許されると、国民はまず新しい宮殿づくりから始めました。
人々は命令もされないのに、
老人を助け、子供を連れて、材料運びに精出し、昼夜兼行で競争して宮殿づくりに励みました。
そのためまたたく間に宮殿ができあがりました。
それ以来天皇を「聖帝(ひじりのみかど)」とあがめるようになりました。


(転載 http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/16399640.html)




(漢詩)

 炊烟起る。  頼山陽

烟未だ浮ばず。天皇愁ひたまふ。

烟已に起る。天皇喜びたまふ。

漏屋(ろうおく)蔽衣(おほい)赤子(せきし)を富ましむ。

子富みて父貧しき此の理無し。

八洲樓樓百萬の烟、

皇統を簇(むらが)り擁して長(とこしへ)に天に接す。




烟未浮  天皇愁
烟已起  天皇喜
漏屋蔽衣富赤子
子富父貧無此理
八洲樓樓百萬烟
簇擁皇統長接天

※仁徳天皇「民既に富む。則ち朕の富めるなり。未だ民富みて君貧しき者非る也」



民のかまどの烟はでていない。仁徳天皇、それを憂ひたまふ。
民のかまどの烟は澤山出て來た。仁徳天皇、とても喜ばれる。
その間、税金を許されたため、國民は豊かになつたが皇居は雨が漏れ、
着物にも不自由されることとなつた。
子供が豐かになつて親が貧しい道理がある譯がない。
大八洲の百萬もの國民の家から炊烟が樓樓と立ちのぼることになつたのも、
仁徳天皇のお慈悲によるものであり、
國民は永久に皇統綿々と貫ぬくこの慈愛を語り繼いでゆく。






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