後鳥羽天皇
我こそは新島守(にいじまもり)よ隠岐の海の
荒き波風心して吹け
(ツィッター掲載解説文)
この御製、まさに王者の風格溢れる歌に感じます。天変地異すらも天皇に随はずにはおかせぬといふ強い思ひを感じます。この御製は承久の変に敗れ、鎌倉幕府によつて隱岐島へ配流され、島に到着した時に作られました。
(ブログ解説)
《歌意》
私こそ、けふからこの隠岐島の新しい島守であるぞ。
此の地の荒き波風よ、心して吹くがよい。
この御製、將に王者の風格溢れる御歌に感じます。
天變地異すらも天皇に随はずにはおかせぬといふ強い決意をここには強く感じます。
この御歌は、天皇親政の願ひ虚しく承久の變に敗れ、鎌倉幕府によつて隱岐嶋へ配流され、島に到着した時に作られた御歌になります。
後鳥羽天皇は、平家がその權力の最も盛んな時期に、高倉天皇の第四皇子として御生れになりました。
平家と共に壇ノ浦に入水した安德天皇の弟君になります。
安德天皇が西国へ落ち延びた寿永三年(1183)に神器のない狀態で三歳で御即位になられます。
それは、後白河法皇が院政を布かれてをられたからであり、後白河法皇が建久三年(1192)崩御され、それ迄頑なに源頼朝の征夷大將軍の宣下を拒んでゐましたが法皇が崩御されたことで宣下が頼朝に成され、こゝに漸く鎌倉幕府が名實共に開府となつたのですが、此の時後鳥羽天皇は未だ十六歳でありました。
その三年後、十九歳で二歳の自らの第一皇子土御門天皇に譲位され、その後二十三年間にわたつて院政を布かれたのでした。
當初は、頼朝が非常な尊皇精神を持つてゐた爲、鎌倉幕府との関係は良好でした。
後鳥羽天皇は、公事の再興・故實の整備にも積極的に取り組まれ、朝廷による親政の實現を目指されて數々の政策にも取り組んで居ましたが、頼朝が亡くなり、北條氏に鎌倉幕府の實權が移ることで、天皇親政を目指す天皇と武家權力による統制を目指す北條執權との間に徐々に軋轢が生じてきました。
鎌倉幕府も將軍と執権との權力爭ひによつて、二代將軍頼家が弑られ、三代將軍に頼朝の二男であつた實朝が將軍に就任したのでした。
この實朝は、父頼朝と同じく尊皇心の厚い人物であり、後鳥羽天皇の信頼も厚いものがありました。
その實朝の尊皇心が顯はれた和歌があります。それは次の和歌です。
源實朝
太上天皇御書下預時歌 (三首)
※御書…勅書。天子の命令を布告する文書。後鳥羽院からの勅書。
□大君の勅をかしこみちちわくに
心はわくとも人に言はめやも
《歌意》大君の勅書を謹んで承り、あれかこれかと心は分かれますけれども、人に言ったりしましょうか。
□ひんがしの國にわがをれば朝日さす
はこやの山のかげとなりにき
《歌意》東国に私はおりますので、朝日がのぼる藐姑射の山、すなわち上皇の御所の蔭に入っているのです。
*藐姑射の山…神仙が住んで居る山の名前。上皇・法皇の御所のこと。後鳥羽上皇の住まはれてゐる御所のこと。
□山はさけ海はあせなむ世なりとも
君にふた心わがあらめやも
〔新勅撰1204〕
《歌意》山は裂け、海は干上がる世であろうとも、天皇様に二心を抱くようなことは決してありません。
この三首の和歌からは、いかに天皇を尊んでゐたかがはつきりと窺ふ事が出來ます。
そして、一首目の和歌については密勅とも云へるものが實朝に後鳥羽天皇から送られたことがはつきりと見て取れます。
であるかこそ、「人にいはめもや」と結んでゐると思ふのです。
其の密勅の内容は何でありませうか?
私の想像ですが、その當時は鎌倉幕府の政治執行の主導權は執權である北條氏に移つてをり、親政を目指す後鳥羽天皇との綱引きが行はれてゐた時期に當ります。
鎌倉幕府としては、武家政治によつて日本を統治せんと動いてをり、實朝は一應その武家政治の統領ではありましたが、後鳥羽天皇への忠誠を盡すことを他の二首で顯はしてゐます。
一首目の和歌で實朝はその心の迷いを表現してゐます。
私は後鳥羽天皇は此の時、實朝に大政奉還を求めたのではないかと考へてゐます。
それを承はり實朝も、迷つたすゑに決斷したがそれを他の人に知られないやうにといふ心になるのではないか思ふのです。
この後、實朝は鶴岡八幡宮で暗殺されてしまひます。
その背景には、この歌三首に大きな要因があつたやうに思へてなりません。
この當りは、又實朝のお話を書いた時にでも詳しく陳べてみたい思つてをります。
この實朝が、暗殺されたことから後鳥羽天皇は、自ら武力によつて鎌倉幕府を打倒せんと起ち上がられたのが「承久の變」といふことになります。
承久の變とは、實朝暗殺の二年後天皇親政を何としても實現しやうとして、鎌倉幕府執權北條義時追討の院宣を發して、蜂起したことから始まりました。
その直前に後鳥羽天皇がお作りになられた御製にその御心底が垣間見えてゐます。
その御歌は次のものです。
□奥山のおどろが下も踏み分けて
道ある世ぞと人に知らせん
この御歌こそ承久の亂にお向かいになる大御心であつたと拜察されるのです。
「道ある世」とは、天皇親政による祭政一致こそが、日本の道なのです。
後鳥羽天皇は、その道を正さんと起ち上がつたのであります。
もう一つ
「王道の衰へゆくを口惜しく思召して再興なされたく思召す大御心」
といふ解釋もあります。
どちらの御心もこの御製には籠められてゐると思ふのです。
更に、もう一首この頃作られたと思はれる御製を紹介しませう。
□五十鈴河たのむ心し深ければ
天照る神ぞ空に知るらむ
この御製は、伊勢神宮に祀られてゐる天皇の祖神であらせられる天照大御神へこの世の平安を祈られてお作りになられた御歌と思はれます。
「たのむ心し深ければ」には、當時を後鳥羽天皇が如何に深く憂へてゐたかが窺はれます。
しかし、承久の變に蜂起されたものの、北條氏の武力は壓倒的で、僅か數日で事は敗れてしまひます。
この變を収束した北條氏の統領であつた義時は、朝廷を嚴しく処斷します。
後鳥羽上皇の院政を停止し、時の天皇であつた仲恭天皇は癈帝とされ、後堀河天皇を即位させ、後鳥羽上皇を隱岐嶋へ、順徳上皇を佐渡へそれぞれ配流します。
此の時、土御門上皇は擧兵に反對されたのですが自ら土佐に赴き、結果として三上皇が島流しになるといふ極めて異例な事態に立ち至つたのです。
この承久の變によつて、後鳥羽上皇の持つ膨大な敷地の荘園は幕府に没収されてしまいます。
これにより朝廷は經濟基盤を大きく失ひ、鎌倉幕府は、それによつて西國の統治能力を高めて、政治基盤を確立することとなりました。
後鳥羽天皇は、隠岐島に配流される時、次のやうな御製を作られてをられます。
□都をばくらやみにこそ出でしかど
月はあかしの浦に來にけり
夜の暗闇に紛れて、後鳥羽天皇を配流する爲の御駕籠は出發されたことがこの御歌からは想像できます。
そして、隠岐の島に到着された時にお作りになられた御製が冒頭の御歌になります。
後鳥羽天皇は、和歌に於て大きな影響を與へ新古今歌壇の隆盛の中心のをられました。
先づは『新古今和歌集』は後鳥羽天皇の勅によつて撰集されます。
そして、その他にもご自身の歌集を幾つも出されてをられます。
更に歌論書『後鳥羽院口傳』を書かれたぐらいでした。
その他にも戰亂かますびしき中で文化の發展に大きく貢獻されました。
隠岐島での、御生活に於ても後鳥羽天皇は和歌に打ち込まれてをられます。
歌集としても『遠島百首』を撰され、嘉禎二年には、在京の歌人の歌を召して歌合を開催されました。
これは、在京の歌人達の歌を召されて自らが判詞を書いたと傳へられます。
そして、特筆すべきは『新古今和歌集』の編輯を隠岐島に於ても續けられ、『隠岐本』として完成させられてゐます。
隠岐に流されて十八年。
波亂の時を送られた後鳥羽天皇は、都に歸る事も出來ずに隠岐國海部郡刈田郷の御所にて崩御されました。
(後鳥羽天皇 了)