※隠岐に着かれて

 後鳥羽天皇


我こそは新島守(にいじまもり)よ隠岐の海の
    荒き波風心して吹け


(ツィッター掲載解説文)

 この御製、まさに王者の風格溢れる歌に感じます。天変地異すらも天皇に随はずにはおかせぬといふ強い思ひを感じます。この御製は承久の変に敗れ、鎌倉幕府によつて隱岐島へ配流され、島に到着した時に作られました。



(ブログ解説)


《歌意》

 私こそ、けふからこの隠岐島の新しい島守であるぞ。
 此の地の荒き波風よ、心して吹くがよい。



 この御製、將に王者の風格溢れる御歌に感じます。

 天變地異すらも天皇に随はずにはおかせぬといふ強い決意をここには強く感じます。

 この御歌は、天皇親政の願ひ虚しく承久の變に敗れ、鎌倉幕府によつて隱岐嶋へ配流され、島に到着した時に作られた御歌になります。

 後鳥羽天皇は、平家がその權力の最も盛んな時期に、高倉天皇の第四皇子として御生れになりました。

 平家と共に壇ノ浦に入水した安德天皇の弟君になります。

 安德天皇が西国へ落ち延びた寿永三年(1183)に神器のない狀態で三歳で御即位になられます。

 それは、後白河法皇が院政を布かれてをられたからであり、後白河法皇が建久三年(1192)崩御され、それ迄頑なに源頼朝の征夷大將軍の宣下を拒んでゐましたが法皇が崩御されたことで宣下が頼朝に成され、こゝに漸く鎌倉幕府が名實共に開府となつたのですが、此の時後鳥羽天皇は未だ十六歳でありました。

 その三年後、十九歳で二歳の自らの第一皇子土御門天皇に譲位され、その後二十三年間にわたつて院政を布かれたのでした。

 當初は、頼朝が非常な尊皇精神を持つてゐた爲、鎌倉幕府との関係は良好でした。

 後鳥羽天皇は、公事の再興・故實の整備にも積極的に取り組まれ、朝廷による親政の實現を目指されて數々の政策にも取り組んで居ましたが、頼朝が亡くなり、北條氏に鎌倉幕府の實權が移ることで、天皇親政を目指す天皇と武家權力による統制を目指す北條執權との間に徐々に軋轢が生じてきました。

 鎌倉幕府も將軍と執権との權力爭ひによつて、二代將軍頼家が弑られ、三代將軍に頼朝の二男であつた實朝が將軍に就任したのでした。

 この實朝は、父頼朝と同じく尊皇心の厚い人物であり、後鳥羽天皇の信頼も厚いものがありました。

 その實朝の尊皇心が顯はれた和歌があります。それは次の和歌です。

源實朝

 太上天皇御書下預時歌 (三首)

※御書…勅書。天子の命令を布告する文書。後鳥羽院からの勅書。


□大君の勅をかしこみちちわくに
   心はわくとも人に言はめやも



《歌意》大君の勅書を謹んで承り、あれかこれかと心は分かれますけれども、人に言ったりしましょうか。


□ひんがしの國にわがをれば朝日さす
   はこやの山のかげとなりにき



《歌意》東国に私はおりますので、朝日がのぼる藐姑射の山、すなわち上皇の御所の蔭に入っているのです。

*藐姑射の山…神仙が住んで居る山の名前。上皇・法皇の御所のこと。後鳥羽上皇の住まはれてゐる御所のこと。


□山はさけ海はあせなむ世なりとも
   君にふた心わがあらめやも

〔新勅撰1204〕


《歌意》山は裂け、海は干上がる世であろうとも、天皇様に二心を抱くようなことは決してありません。

 この三首の和歌からは、いかに天皇を尊んでゐたかがはつきりと窺ふ事が出來ます。

 そして、一首目の和歌については密勅とも云へるものが實朝に後鳥羽天皇から送られたことがはつきりと見て取れます。

 であるかこそ、「人にいはめもや」と結んでゐると思ふのです。

 其の密勅の内容は何でありませうか?

 私の想像ですが、その當時は鎌倉幕府の政治執行の主導權は執權である北條氏に移つてをり、親政を目指す後鳥羽天皇との綱引きが行はれてゐた時期に當ります。

 鎌倉幕府としては、武家政治によつて日本を統治せんと動いてをり、實朝は一應その武家政治の統領ではありましたが、後鳥羽天皇への忠誠を盡すことを他の二首で顯はしてゐます。

 一首目の和歌で實朝はその心の迷いを表現してゐます。

 私は後鳥羽天皇は此の時、實朝に大政奉還を求めたのではないかと考へてゐます。

 それを承はり實朝も、迷つたすゑに決斷したがそれを他の人に知られないやうにといふ心になるのではないか思ふのです。

 この後、實朝は鶴岡八幡宮で暗殺されてしまひます。

 その背景には、この歌三首に大きな要因があつたやうに思へてなりません。

 この當りは、又實朝のお話を書いた時にでも詳しく陳べてみたい思つてをります。

 この實朝が、暗殺されたことから後鳥羽天皇は、自ら武力によつて鎌倉幕府を打倒せんと起ち上がられたのが「承久の變」といふことになります。

 承久の變とは、實朝暗殺の二年後天皇親政を何としても實現しやうとして、鎌倉幕府執權北條義時追討の院宣を發して、蜂起したことから始まりました。

 その直前に後鳥羽天皇がお作りになられた御製にその御心底が垣間見えてゐます。

 その御歌は次のものです。


□奥山のおどろが下も踏み分けて
   道ある世ぞと人に知らせん



 この御歌こそ承久の亂にお向かいになる大御心であつたと拜察されるのです。

 「道ある世」とは、天皇親政による祭政一致こそが、日本の道なのです。

 後鳥羽天皇は、その道を正さんと起ち上がつたのであります。

 もう一つ

「王道の衰へゆくを口惜しく思召して再興なされたく思召す大御心」

といふ解釋もあります。

 どちらの御心もこの御製には籠められてゐると思ふのです。

 更に、もう一首この頃作られたと思はれる御製を紹介しませう。


□五十鈴河たのむ心し深ければ
   天照る神ぞ空に知るらむ



 この御製は、伊勢神宮に祀られてゐる天皇の祖神であらせられる天照大御神へこの世の平安を祈られてお作りになられた御歌と思はれます。

 「たのむ心し深ければ」には、當時を後鳥羽天皇が如何に深く憂へてゐたかが窺はれます。

 しかし、承久の變に蜂起されたものの、北條氏の武力は壓倒的で、僅か數日で事は敗れてしまひます。

 この變を収束した北條氏の統領であつた義時は、朝廷を嚴しく処斷します。

 後鳥羽上皇の院政を停止し、時の天皇であつた仲恭天皇は癈帝とされ、後堀河天皇を即位させ、後鳥羽上皇を隱岐嶋へ、順徳上皇を佐渡へそれぞれ配流します。

 此の時、土御門上皇は擧兵に反對されたのですが自ら土佐に赴き、結果として三上皇が島流しになるといふ極めて異例な事態に立ち至つたのです。

 この承久の變によつて、後鳥羽上皇の持つ膨大な敷地の荘園は幕府に没収されてしまいます。

 これにより朝廷は經濟基盤を大きく失ひ、鎌倉幕府は、それによつて西國の統治能力を高めて、政治基盤を確立することとなりました。

 後鳥羽天皇は、隠岐島に配流される時、次のやうな御製を作られてをられます。


□都をばくらやみにこそ出でしかど
   月はあかしの浦に來にけり



 夜の暗闇に紛れて、後鳥羽天皇を配流する爲の御駕籠は出發されたことがこの御歌からは想像できます。

 そして、隠岐の島に到着された時にお作りになられた御製が冒頭の御歌になります。

 後鳥羽天皇は、和歌に於て大きな影響を與へ新古今歌壇の隆盛の中心のをられました。

 先づは『新古今和歌集』は後鳥羽天皇の勅によつて撰集されます。

 そして、その他にもご自身の歌集を幾つも出されてをられます。

 更に歌論書『後鳥羽院口傳』を書かれたぐらいでした。

 その他にも戰亂かますびしき中で文化の發展に大きく貢獻されました。

 隠岐島での、御生活に於ても後鳥羽天皇は和歌に打ち込まれてをられます。

 歌集としても『遠島百首』を撰され、嘉禎二年には、在京の歌人の歌を召して歌合を開催されました。

 これは、在京の歌人達の歌を召されて自らが判詞を書いたと傳へられます。

 そして、特筆すべきは『新古今和歌集』の編輯を隠岐島に於ても續けられ、『隠岐本』として完成させられてゐます。


 隠岐に流されて十八年。

 波亂の時を送られた後鳥羽天皇は、都に歸る事も出來ずに隠岐國海部郡刈田郷の御所にて崩御されました。




(後鳥羽天皇 了)
(七月第三週)

「元冦③」 

  後宇多天皇


いとどまた民安かれと祝ふかな
  我が躬世にたつ春のはじめに




(ツィッター掲載解説文)

 元冦の危機を乗り越えられた後に作られた御製です。天皇とは国民が安穏に暮らしてゆくことを願ひ、祈られてゐる。さういふ御存在なのであります。この御製を拝誦した時にそれがはつきりと実感する事が出来ます。



◇ブログ解説

 この御歌も元冦の危機を乗り越えられた後に作られた御製になります。


《歌意》

(元冦を撃退して)さらに又、國民が安らかで暮らしてゆけることを祝つてゐる。この私が天皇として新春を迎へたことを共に喜びたい。



 天皇とは唯々國民が安穏に暮らしてゆくことを願ひ、祈られてゐる。

 そういふ御存在なのであります。

 この御製を拜誦した時にそれがはつきりと實感する事が出來ます。

 後宇多天皇は、建武中興を行はれた後醍醐天皇の父君であらせられ第九十一代の天皇になります。

 前に御紹介させていただいた

「四方の海浪おさまりてのどかなる我が日の本に春は來にけり」

といふ御製をお作りになられた亀山天皇様の第二皇子であたられ、八歳で御即位され、父君である亀山天皇の院政の中、二回の元冦にあはれます。


 文永の役の時には御即位後すぐでした。

 この文永の役に於て武士達の奮戰は素晴らしく、博多の赤坂の戰ひでは、鎌倉幕府打倒に於て活躍する肥後の菊池一族の祖菊池武房が元軍を破り多くの首級を上げたのを端緒に九州各地の武將が上陸した元軍を撃ち破つたといひます。

 現代の歴史學ではこのやうな武士達の活躍と勇猛さは殆んど採り上げられることはありませんが、この文永の役は戰鬪に於ても日本軍の大勝利でした。

 また、弘安の役に於ても、武士達の奮戰活躍振りは凄まじく、元・高麗軍は其の戰闘の殆んどは日本軍が元軍を破つてゐます。

 神風が吹かなければ日本は負けたであらうと云ふのは間違ひであります。


 文永の役の流れについて、少し解説して見ませう。

 文永の役の最初は、元の皇帝フビライの國書が始まりといへます。

 文永五年(1268)フビライは、日本に對し、その自國の強大な武力を背景に通交を求める國書を六回も送つて來ます。

 朝廷と鎌倉幕府は、それを悉く強硬な姿勢を貫き返書を出しませんでした。

 それでも、第三回目の使節がやつて來た時、朝廷では文章博士菅原長成に返書草案を作り鎌倉幕府に問ふたのでした。

 その内容は次のやうなものでした。



「蒙古といふ國は今迄知られず、何ら因縁もないにも拘らず、武力を以て臣從を迫るとは、甚だ無體である。日本は天照大神以來の神國であつて、外國に臣從する謂はない」


といふ強硬な文章でしたが、鎌倉幕府は更に強硬で、返牒も出さず使節を追い返すのみでよいといふものでした。


 しかし、その朝議(返書についての朝廷と執権の会議)が外に誤つて漏れたらしく、宏覺禪師は和親の返牒があるとの風評に怒りを持て、悲憤骨髄に徹し、ただ神佛の加護によつてこれを中止せんと、文永六年十二月二十七日から六十三日間祈檮を行ひました。


 その祈願文の最後にこの和歌一首がしたためられていたと言ひます。

末の世の末の末まで我國は
  萬づの國にすぐれたる國


(愛國百人一首)

 その祈願文は


「正傅之を聞く、愁嘆量り無し。悲しみ骨髄に徹し、・・・
 重ねて乞ふ神道雲となり風となり、雷となり、雨となり、破し國敵を摧く。
 天下泰平、諸人快樂ならしむる」



 この祈願文は、戦前は國寶となつてゐたさうでありましたが、現在はどうなのか私には分かつておりません。

 しかし、元冦の當時、僧侶に至るまでいかに國を思ふ心が意氣盛んであつたかが分かるのではないでせうか。
 
文永九年(1272)

 鎌倉幕府は、異國固番役を設置。鎮西奉行少弐氏や大友氏に指揮を命じます。

 日蓮の立正安國論が幕府に上呈される。


 このやうなやり取りが六回も續き、フビライは日本を攻めることに決したといひます。

 そして、その準備には屬國となつて居た高麗に船を造らせました。

文永十一年(1274)

十月三日、

 元軍二萬五千人、高麗軍八千人、他に水夫等合せて四萬人の手勢を以て大小九百餘叟の船團が朝鮮半島の合浦(がつぽ)(現韓國・國馬山)から日本に向けて進攻したのでした。


 その後の流れを時系列で分かる範圍で書いてみます。

十月 五日

 午後四時。元軍、對馬に上陸。對馬守護代宗資國八十餘騎で應戰するも戰死。
 同日夜     博多へ對馬に元軍襲撃の報告に二人が出發。


十月 六日

 津島に元軍襲撃の知らせが到着。
 京都・鎌倉に元軍襲來の急報が出發した筈。
(船 → 京都二日・鎌倉四日。早馬 → 京都四日・鎌倉六日)


  十二日

 遅くともこの日には鎌倉に襲來の報告が到着してゐる筈。 
 對馬では、島民が悉く虐殺や生け捕りに遇ふ。(十三日まで)


十月十四日

 元軍、壹岐島を襲撃。壹岐守護代平景隆百餘騎で奮戰するも及ばず。


  十五日

 平景隆、城にて自害。元軍に據つて壹岐島は征壓される。
 對馬と同じやうに島民の悉くが虐殺されるか、生け捕られる。


  十六日

 肥前沿岸松浦郡に襲來。
 此の地を治めてゐた松浦党が奮戰するものの全滅してしまふ。
 死者數百人(女子供も含む)


※ここ迄は、日本軍のいい所が一つもありませんでしたが、それも當然です。
 迎撃態勢が整つて居なかつたのですから。 


  十九日

 九州地方の守護代や御家人によつて迎撃準備が漸く調ひました。


  二十日

 元軍が筑前國早良郡(現福岡市早良區)に上陸。
 進軍して赤坂を占領し、陣を布きました。
 日本軍は、息の浜に集結し、元軍を待ち構へて陣を布いて居ました。
 菊池武房が一族郎黨百餘騎で赤坂に陣を布く元軍を襲撃して撃破する。
 多くの蒙古兵の首級を擧げる。元軍は恐怖し赤坂から敗走する。
 敗走した元軍は、その本隊と合流し鳥飼潟にて陣を布く。
 日本軍も鳥飼潟に向かい、こゝで初めて大規模な戰鬪が行はれる。
 この戰ひに於ても元軍は敗走して百道原に退却。
 百道原にも日本軍が追撃し、
 元軍はやむなく上陸地まで退却せざるを得なかつた。


 元軍は軍議を開き、最高司令官が


「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあつて、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戰つても、多數の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに増えるであろう敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言へない。撤退すべきである」


と撤退することにしたといひます。

 そして、夜間の撤退を強行してあ元・高麗軍は海上で暴風雨に遭遇して、多くの軍船が沈没して、帰還できたものは、高麗の史料によると一萬三千五百餘人と記録されてゐます。


 こゝに於て特筆すべきは九州の武士達だけで元軍を撃退したといふ事です。

 當然の如、鎌倉幕府から全國各地の武士達に動員が發せられ、續々と九州目指して向つて居たのですから、元軍が恐怖するのは當然ではないかと思ふのです。

 元の総司令官である忻都は文永の役後にフビライに次のやうな報告をしたと言ふ話があります。


「倭人は狠ましく死を懼れない。たとえ十人が百人に遇つても、立ち向かつて戰ふ。勝たなければみな死ぬまで戰ふ。」

(『元韃攻日本敗北歌』)  


 元軍にとつては、ここ迄連戰連勝できて初めて強敵に打ちのめされたのでした。

 結局弘安の役に於ては三倍以上の兵力を投入することとなります。

 ここ迄、私達は若し神風が吹かなかつたならば、日本は元に征服されて居たといふやうな論理が罷り通つて居ましたが、決してそうではなかつたといふ歴史資料が存在するのです。

 私は日本人として、どちらかと言へば此の論理を支持したいと思ふのです。

 後宇多天皇は、この文永の役當時は、御即位されたばかりで八歳といふ御年齢でした。

 ですから、冒頭の御製は、弘安の役の撃退時に作られたのではないかと想像します。

 日本に立ち籠めて居た暗雲が新春を迎へきれいに吹き拂はれ、國民と一緒に御喜びになられてゐる大御心が現はれてゐる御歌に感じます。


 後宇多天皇は、學問を極めて好まれ、特に密敎に於ては著書を遺されるほど蘊奥を深められてゐます。

 和歌に於ても熱心で、二条爲世に命じて二度にわたつて勅撰集(『新後撰集』『續千載集』)を撰進させてゐます。

 大覺寺は、後宇多天皇が再興しました。

 また、後醍醐天皇による建武中興に於ても後援されてゐます。





(了)



(七月第三週)

○天皇行幸 

  明治天皇御製


山のおく島のはてまで尋ねみむ
  世にしられざる人もありやと



(ツィッター掲載解説文)

 この国の山の奥や島の涯てに到るまで、人知れず世の為に働く人が居るに違ひない。この御歌には国民の総てのを心に懸けてゐる大御心が顕はれてゐます。米国ウエスト博士曰く「たとへ絶海の孤島に住んででも天皇陛下にお仕へしたい」


(ブログ解説文)

《歌意》

 この國の山の奧や島の涯てに到るまで世の爲、一生懸命働いてる人が居るに違ひないから必ず訪ねて見やう。


(解説)

 この御歌には、國民の總てのことを心に懸けてゐる大御心が顯はれてゐると思ふのです。

 そして、絶海の孤島で生きてゐる國民にも心を配られて行幸を行はんとされてゐることが拜せられるのです。

 この御歌から思ひ浮かぶことに、米國のジョージ・ランボーン・ウエスト博士のことがあります。

 ウエスト博士は


「私は日本人になりたい。辟へ絶海の孤島に住んででも天皇陛下にお仕へしたい」


このやうにのべられました

 このウエスト博士は、昭和四年(一九二九年)、米國テキサス州サン・アントニオに生れて、テキサス士官學校、テキサス法科大学を卒業後、法学博士の學位を修得され、メールランド大學を初めとして幾つかの大學教授を歴任されて、ダラスで弁護士事務所を開設して活躍されました。

 少年時代にラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の手紙を図書館で見てから日本に憧れ、
こよなく日本を愛して下さいました。

 博士のエピソードは數々ありますが、特に有名なお話しに次のやうなものがあります。

昭和五十一年年に發行された難波江通泰氏の

『天皇陛下にお仕へしたい ウエスト博士の思ひ出』
という著書があります。


この中でウエスト博士は、



「日本の繁栄はすばらしい。無限の可能性を持っている」

と言うと難波江氏は、


「あなたの考えでは、日本の繁栄の根本的な原因は何であるとお思いですか?」

「それは、日本に天皇陛下が居られるからです」

「・・・・・」

ウエスト博士は続けてこう言いました。

「私は日本人になりたい」

「どうしてですか?」

「それは天皇陛下が居られるからです。
 天皇陛下が居られる国だから、私は日本へ来たのです。
 もし日本に天皇陛下が居られないならば、それはドイツやソ連やイギリスやメキシコやアメリカなど、世界のすべての国と同じであって、そんな国ならどこへ行っても同じことです。
 イギリスやオランダなどにも国王や女王が居られるけれども、それらは日本の皇室や天皇陛下とは違う。
 天皇陛下が居られるのは日本だけだ。絶海の孤島の漁師でもいい。
 山間僻地の貧しい百姓でもいい、私は日本人になって天皇陛下にお仕えしたい」


 このやうに述べられたのです。

 またウエスト博士は日本各地で講演をされてをられますが、靖國神社遊就館での講演では次のやうに話されたといひます。



「アメリカの占領政策でジョン・デューイの教育哲学が日本に持ち込まれたことが教育の荒廃をもたらしました。
 個性尊重と称して子供を甘やかし、学校も親も道徳教育への自信を喪失してしまつたのです。
 それは日米ともに同じです。
 教育再建のためにはアメリカは開拓者精神に帰り、日本は教育勅語を復活させねばならない。
 日本人は喪った魂を取り戻すべきである」
と。


 そして、日本での講演では必らずと言つてよいほど行ふ儀式を聴衆に言はれました。

「さあ、そのために天皇陛下の萬歳を三唱をしよう」

と、仰有りウエスト博士は頬を紅潮させながら、天皇陛下萬歳を高らかに三唱したといひます。

 勿論、ウエスト博士の夫人も日本人女性です。

 ウエスト博士がこのやうな心となつたのも、明治天皇のこの御製の大御心を感じられたからこそではないかと思ふのです。

 如何なる孤島の涯ての涯てであらうとも、そこで人知れず働いて居る國民にまで思ひをかけられる。

 これが天皇様の大御心であり陛下の行幸なのです。


 








 『正氣歌』解説本 その2


  編著 小林 隆
  共著 横尾 桂一



 先づは最初に、支那の文天祥の『正氣歌』からお話ししたいと思つてゐます。
 この文天祥といふ人の人物はどんな人であつたのかから解説させていただきます。


文天祥

 (1236年~1283年)

「變に臨み危難に逢つても節義を全うし誠を尽くせる人というのが、本物の人物なのであろう。だからこそ志士たちは、こぞつて天祥を敬仰したのである」(皇學館大學准教授渡邊毅氏)


 このやうに讃へられた人物天祥こそ文天祥です。

 文天祥は、南宋の終り頃の人で、日本でいふと鎌倉時代初期に當ります。

 滅亡する宋と共に其の節義を貫き死んで行きました。

 當時、蒙古が元帝國とならんとする時期で、その蒙古に因つて南宋が滅亡の危機に陷つて居ました。

 この時期に南宋の右丞相であつたのが文天祥でした。

 何としても滅亡を距がんと戰つてゐたのですが、結局敗れて蒙古軍に捕まつて大都(現北京)に護送されます。

 その途上、文天祥は絶食による自裁を圖るも果たすことができず牢獄に入れられてしまひます。

 大都では、元によつて厓山に追い詰められてしまつた宋の殘黨軍に降伏文書を書くやうに強要されるも、文天祥は、漢詩を作りこれを拒絶します。

 その時に作られたのが天祥のもう一つの名高い詩「零丁洋を過ぐ」であるといはれてゐます。

 その漢詩をこゝに擧げて見ます。


零丁洋(れいていやう)を過ぐ

     文天祥

辛苦(しんく)遭逢(そうほう)一經より起る。
干戈(かんか)落落(らくらく)たり四周星(ししゅうせい)
山河破砕風絮(ふうじょ)を漂はし。
身世(しんせい)瓢揺(ひょうよう)雨萍(うへい)を打つ。
皇恐(こうきょう)灘邊(だんぺん)皇恐を説き。
零丁(れいてい)洋裏(ようり)に零丁を歎く。
人生古より誰か死無からん。
丹心を留取して汗靑(かんせい)を照らさん。



辛苦遭逢起一經、
干戈落落四周星。
山河破碎風飄絮、
身世浮沈雨打萍
惶恐灘頭説惶恐、
零丁洋裏歎零丁
人生自古誰無死、
留取丹心照汗靑


(現代語譯)              

 經典を學んで起用されて以來、あらゆる辛酸に遭遇し、幾多の戰いに從事すること四年。
 その間、祖國の山河は悉く破壊され、風が柳絮を吹き拂ふが如く、わが身も雨に打たれる浮き草のやうに搖れ飜つてゐる。
 さきに惶恐灘の畔では、惶恐すべき話を聞いたし、今この零丁洋では文字通り唯獨りになつてしまひ落ちぶれたやうに見ゆる。
 しかし、人間誰しも昔から死なないものはゐない。
 せめてこの赤誠の心をこの世に留め置き、史書の上に輝きたいものだ。



 この詩を詠んだ時、思ひ出すのは萬葉集にある山上憶良の和歌です。

 その歌は


(をのこ)やも空しかるべき萬づ代に
  語り繼ぐべき名は立てずして



になります。

 この憶良の和歌は、

「男子たる者、虛しく朽ち果ててよいものであらうか。後世にその名を語り繼がれるほどの功績を殘さずして」

といふ意味になります。

 この和歌に比較して、文天祥の漢詩は背景が牢獄にて作られてゐるといふ事から考へたならば將に鬼氣迫るものがあるやうに思へてなりません。


(次回に續く)
告日本國(こくにほんこく) 最終章

  ポール・リシャル

*連載してきたポール・リシャルの『告日本國』も本日を以て終了となります。
 このリシャルの文章に據つて今こそ私達はこの國の眞の使命に目醒め、世界平和に大きく貢獻する吾等の高貴なる基を自らのものとする事を願つて已みません。

 世界平和とはこの地球上のあらゆる生命の大調和の世界といふ事ではないでせうか。

 日本といふ國は建國の初めよりその使命を自覺し、國の體を作り、歴史を紡いできました。

 八紘爲宇といふ言葉の眞の意味を理解した時、吾等の祖先の皆さんの尊い願ひを實感するに違ひありません。

 それでは、最後にリシャル博士の日本讃歎詩「日本の児等に」を以て最後とさせていただきます。


 日本の兒等に!

 ポール・リシャル(佛)


曙の児等!海原の兒等!
花と焔の國 

力と美との國の兒等!

聴け、涯しなき海の諸々の波が、

日出ずる國の島を讃ふる榮譽の歌を

汝の國に七つの榮譽あり。

故にまた七つの大業あり

さらば聽け、

その七つの榮譽と七つの使命とを。


    一

獨り自由を失はざりし

亜細亜唯一の民!

汝こそ自由を

亜細亜に與ふべきものなれ


    二

嘗て他國に隷属せざりし

世界唯一の民!

一切の世の隷属の民のために

起つは汝の任なり


    三

嘗て滅びざりし唯一の民!

一切の人類幸福の敵を

滅ぼすは汝の使命なり


    四

新しき科學と旧き智慧と、

欧羅巴の思想と

亜細亜の精神とを

自己の衷に統一せる唯一の民!

此等二つの世界、

來るべき世の

此等兩部を統合するのは

汝の使命なり


    五

流血の跡なき宗敎を有てる唯一の民!

一切の神々を統一して

更に神聖なる眞理を

發揮するは汝なるべし


    六

建國以來一系の天皇、

永遠に亘る一人の天皇を

奉裁せる唯一の民!

汝は地上の萬國に向かつて

人は皆な一天の子にして、

天を永遠の君主とする一個の帝國を

建設すべきことを敎へんが爲に生れたり


    七

萬國に優れて統一ある國民!

汝は來るべき一切の統一に

貢獻せん爲に生れ

また汝は選士なれば、

人類の平和を促さん爲に生れたり

曙の兒等!

海原の兒等!


斯くの如きは、

花と焔との國なる

汝の七つの榮譽、

七つの大業なり







(『告日本國』 了)