中国で日本語教師をしていた頃の話。
私は「日本語の会話担当」という、なんだか響きだけはそれっぽい新しい役割を任された。
実態はほぼ雑談係である。
最初の生徒は27歳のリさん。
日系企業勤務、角刈り、姿勢がよく、声も低め。
どう見ても「誠実」という漢字が作業着を着て歩いているような人だった。
初回の自己紹介。
リさん「私はジブリの映画が大好きです。その中でも一番好きなのは『猫の恩返し』です。」
角刈り × 猫の恩返し。
この時点で、私はもうだいぶ好きだった。
リさんは独身で、彼女募集中。
会話の授業という名目で、恋愛相談が始まる。
「出会いがない」とか「どうやって女性と話せばいいかわからない」とか。
結果、45分間ほぼ恋バナで終了する日もあった。
マンツーマンなので誰にも怒られない。
たぶん教育機関としてはギリギリのラインだったと思う。
そんなリさんから、クリスマス前に嬉しい報告が入った。
いつも通り丁寧な日本語で近況トークをしていたその流れで、急に姿勢を正し、少しだけ胸を張って言った。
「先生……女ができました」
……女。
彼女でもなく、ガールフレンドでもなく、恋人でもなく、
女。
一瞬、昭和の映画のワンシーンかと思った。
あの角刈りの真面目青年の口から、
人生で一度も聞いたことがなさそうな単語が飛び出してきた衝撃。
たぶん本人は
「彼女ができました」
のつもりで、全力で選んだ日本語だったのだと思う。
でも結果、
「先生、女ができました」
私は一瞬フリーズしつつも、
「お、おめでとうございます……」
とだけ絞り出した。
その後、照れながら彼女との馴れ初めを話すリさんは、相変わらず誠実で可愛かった。
日本語は時々ズレる。
でも、人生はちゃんと前に進んでいる。
そんなことを考えながら、私はたまにリさんを懐かしく思うのだった。

