F1 OP 1992 | naoyaのブログ

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思いついたらいろいろ書きます。コメントは基本的に見ません。ご理解のほどよろしくお願いします。

国旗は放送されたグランプリが開催された国で、国籍が異なる場合がある。

マリア・テレーザ・デ・フィリップス(1926-2012)
F1に初めて出場した女性ドライバー。58年、マセラティからベルギーGPに出走し、10位完走。これが彼女のF1の唯一の成績である。仲の良かった男性ドライバーが次々と事故で亡くなると彼女もF1を去った。後々ロンバルディ、アマティと女性ドライバーが出場したが、ロンバルディが0.5点を取っただけで今だに苦しい戦いが続いている。のちにマセラティの会長を務めた。

デニス・ハルム(1937-1992)
ジャック・ブラバムを訪ねメカニックとして修行。その後、ブラバムレプコのドライバーとなり、8年後の1967年、恩師ブラバムに勝ちワールドチャンピオンになるが、それが原因で翌年、マクラーレンに放逐される。同郷のブルースマクラーレンを助け、彼が亡くなると大黒柱としてチームを支えた。92年、バサースト1000のレース中に心臓発作により急死。だが、死を予感した彼はマシンをコースサイドに止め二次事故は防いでいた。

ウィルソン・フィッティパルディシニア(1922-2013)
彼はレーシングドライバーではなく、記者である。イタリア移民の彼は、レースに熱狂し、1950年代のF1に記者として参加した。彼の夢は息子たちウィルソンJr.とエマーソンの兄弟をF1に乗せること。そして夢は叶い、エマーソンがチャンピオンになり、ブラジルはF1人気が急上昇した。クリスチャンフィッティパルディはウィルソンJr.の息子で彼の孫である。

クリス・エイモン(1943-2016)
つねに優勝できる実力があるのにも関わらず、何故か1度の優勝も無かったドライバー。19歳でF1デビュー、22歳でルマン24時間レースを優勝し、1967年、栄光のフェラーリへ加入。しかし、マシンに競争力がなく大苦戦。ついには夢に賭けて自らチームを立ち上げるが全く結果が出なかった。1976年、ウィリアムズでスペインに入賞し引退。

ジュゼッペ・ファリーナ(1906-1966)
法律学の教授であり、真のプロフェッショナルドライバーであった。1950年、情け容赦のない厳しく大胆な攻めで記念すべき初代F1ワールドチャンピオンに輝いた。1950年、イギリスのシルバーストーンで開催された第1回F1グランプリでのファリーナのアルファロメオの平均時速は、146.378kmであった。ニーノという愛称で呼ばれていた。

プリンス・ビラ(1914-1985)
タイの王族。幼き日からイギリスに渡り、レースと出会う。戦前にはモナコGPなどで合計20勝している。F1が始まると1951年、マセラティで参戦し、中嶋悟がF1にデビューする36年前に初参戦したアジア人初のF1ドライバー。しかしF1での表彰台は意外にもない。1985年、ロンドンの地下鉄の駅で急死。アジア人初のF1の表彰台は鈴木亜久里の90年鈴鹿。

エリオ・デ・アンジェリス(1958-1986)
シャドウで79年にF1デビューした後の翌80年、ロータスのF1ドライバーに抜擢され、81年からはエースドライバーになり、1982年オーストリアでロズベルグに競り勝ち優勝。コーリン・チャップマン存命時の最後の優勝をもたらした。85年サンマリノでも繰り上がりではあるが優勝。翌86年、ブラバムに移籍後、ポールリカールでテスト中死亡した。貴族の末裔で、ピアノを嗜んでいたようだ。

ジャン=ピエール・ベルトワーズ(1937-2015)
オートバイのチャンピオンから4輪レースに転向したが、すぐに大事故で左手足が不自由になる。しかし、諦めずにマトラからF1デビュー。1972年、大雨のモナコGPでたった1度の優勝をし、層の薄いフランス人ドライバーの尖兵となった。のちにF1からは退き、サルーンカーレースで活躍した。F1デビューした直後、別のドライバーの死亡事故の責任を問われ捕まったことがある(不起訴処分)。

マイク・ホーソン(1929-1959)
とにかくぶっ飛ばすのが大好きなスピードオタク。1958年、フェラーリを駆り、ヴァンオールの無冠の帝王スターリングモスと激しく争った末にイギリス人初のチャンピオンとなった男。翌年引退後、愛車ジャガーが木に衝突し亡くなるが、もともと病気により長くは生きられなかったようだ。1955年、あのメルセデスの大事故が起きたルマン24時間レースで優勝しており、因果は巡ったか。

ステファン・ベロフ(1957-1985)
1984年、シーズン途中にティレルの水タンク事件で失格とはなるものの、アイルトンセナに続いて雨のモナコGPで3位になり、才能溢れる光る走りを見せた。ゆくゆくはドイツ人初のワールドチャンピオンと期待されていた。しかし、1985年のスパ24時間レースのオー・ルージュで、ポルシェとともに絶命。ドイツの期待は9年後のミハエルシューマッハまで待たねばならなかった。

ヴィットリオ・ブランビッラ(1937-2001)
かなり遅めの36歳でのF1デビュー。しかし、慎重にはとてもじゃないが程遠いドライビング。力の劣るマシンで壊れるまで全開。そのドライビングと厳つい顔からモンツァのゴリラと呼ばれた。1975年、雨で打ち切られたオーストリアGPに優勝し、あまりの嬉しさゆえガッツポーズで手を離しゴール直後にクラッシュ。そういう人柄の彼は皆に愛された。

グンナー・ニルソン(1948-1978)
彗星のように現れ、彗星にように去った人。2年間ロータスをドライブし、1977年、ゾルダーでニキラウダに競り勝ち、生涯たった1度の優勝を遂げた。1978年にアロウズに移籍するが、癌に侵され、その年末、黄泉の国に旅立つ。29歳の命ではあったが、その走る姿は我々に感動を与えた。亡くなる寸前、モンツァのアクシデントで死んだロニーピーターソンの葬儀にも参加していた。

アルベルト・アスカリ(1918-1955)
スクーデリアフェラーリの初期に活躍したイタリア人のドライバー。1952、1953年と連続してワールドチャンピオンになる。特に1952年は出場レース全てに優勝した。1955年、ランチアをドライブ中モナコのシケインから海に転落するが、水夫により奇跡の救助されたのにもかかわらず、4日後、急遽参加したフェラーリのテスト中に死亡。死からは逃れられなかった。

フロイラン・ホセ・ゴンザレス(1922-2013)
偉大な帝王ファンジオと同時期に活躍していたアルゼンチンのドライバー。その丸々とした体の太さ故にハンパの雄牛と呼ばれた。1951年のイギリスGPでの優勝は彼にとって、そしてフェラーリにとってF1初優勝であった。後にファンジオとともに当時のマシンで各地のサーキットを走り回っていた。2013年、90歳で亡くなる。

第2期ホンダエンジン
人間のエンジン、血の通ったエンジン、鈴鹿の清々しい空気を吸い、回れよ。 今、ホンダミュージックは鳴りやまず」
1965年メキシコ、1967年のモンツァで優勝しながらも撤退したホンダが再びF1に挑んだのは1983年イギリスGPのスピリットからだった。最初は振るわず、ウィリアムズにスイッチしても結果が出なかったが、ダラスで優勝し、最強エンジンの礎を築いた。後にマンセル、ピケ、セナ、プロストらの活躍で数々の優勝を遂げた。中嶋悟もドライブしていたが、1992年、不景気により撤退。

ブルース・マクラーレン(1937-1970)
1959年のセブリングで当時としては最年少の21歳にしてF1の優勝を成し遂げたドライバー。微笑みを忘れない人柄のマクラーレンはやがてマクラーレンチームを起こし、指揮者の道を歩む。しかし、1970年、カンナムのテスト中の事故で死亡。チームは友人のテディメイヤーが継ぎ、のちにロンデニスに託され今に至るのである。
番外
ジャック・ラフィット(1943-)
1977年、リジェのF1フル参戦とともにF1にステップアップ。その年のスウェーデンGPで初優勝。1979年、アルゼンチン、ブラジルの開幕2連戦に優勝するもそれ以外で優勝できずフェラーリのシェクターに逆転負け。1986年、イギリスGPでグラハムヒルの持つ最多出走記録176戦に並んだが、スタート時の大クラッシュに巻き込まれて負傷し引退。