15歳のときにイタリアからアメリカに渡り、アメリカのモータースポーツで活躍し、F1へ。フェラーリ、パーネリを経てロータスに加入。1978年、ピーターソンのサポートを受け、ワールドチャンピオンになる。しかし、ピーターソンの死によって決まっただけに嬉しさは少なかった。90年代でも息子らに混じってインディカーレースに出場していた。親しみやすい空気を醸し出し、さらには彼がいるだけで周りを明るくできる人だったという。
1970年のポイントリーダーだったヨッヘン・リントがモンツァで消えた後、チャップマンに見出され、ワトキンズグレンのアメリカGPに勝つ。この優勝が亡きリントのチャンピオンを確定させた。1972年、史上最年少のワールドチャンピオンになるが、1976年、コパスカーというエマーソンとウィルソンの兄弟で起こしたチームでは結果が出なかった。現在孫ピエトロがF2で走っている。
若い頃は誰かとクラッシュしまくるせいで、危険人物扱いされていたのは壊し屋ことアンドレアデチェザリスとかぶる。しかし、チェザリスと違うのは、ティレルで磨かれ、1977年、ウォルターウルフレーシングで一流になり、1979年、フェラーリでワールドチャンピオンになった点である。1980年フェラーリが低迷しそのまま引退。今は南アフリカで実業家に転身した。
身も心もフェラーリに捧げたイタリアン。メカニックからフェラーリのドライバーになり、エースのサーティースをサポートし、自らがエースとなった1967年、モナコのシケインで事故死。その後、彼が死んだ事をイタリアメディアに批判されまくったエンツォフェラーリは自らもイタリア人ながらイタリア人ドライバーを起用するのを拒むようになった。
ジル・ヴィルヌーブの数少ない親友で、彼がゾルダーに散ると、タンベイがフェラーリの27番を引き継いだ。そして第12戦西ドイツGPで優勝。83年サンマリノGPでも優勝。その後ルノー、ハースローラを渡り歩き、パリダカでも成績を残した。温厚で親切、つまり人柄が良いことでは一番だが、F1の一番には程遠かった。窮地のフェラーリを救ったが、評価されなかった不遇な人。
この人を知らない方もいらっしゃるだろうが、この男ほど、日本のモータースポーツに影響を残す男はいない。気難しく地味だが、ブラバムに劣らぬ開発力を持ち、与えられた仕事はキッチリこなす職人肌。1965年最終戦メキシコGPに優勝、自身初優勝、さらにホンダ、グッドイヤータイヤにF1初勝利をもたらした。今は優勝の地メキシコに眠っている。
1978年、ティレルからF1デビュー。1980年、リジェでベルギーGP(のちにヴィルヌーブを失うことになるゾルダー)に優勝し、フェラーリへ移籍。1982年、サンマリノGPでチームオーダーを無視して優勝してしまい、ヴィルヌーブの死の遠因を作る。さらに西ドイツでは予選中プロストに乗り上げてケガを負い、2度とF1に乗れなかった。ちなみに息子の名はジルとディディエ。ヴィルヌーブのことを忘れたくなかったのか。それとも偶然か。
1975年、ヘスケスで優勝し、その勢いでマクラーレンへ。この年、ニキラウダと激しくチャンピオンを争い、富士スピードウェイでのニキラウダの棄権もありチャンピオンとなる。1979年、ウルフのパフォーマンスに失望し引退。BBCの解説者として辛口批評を続けたが、1993年、心臓発作によりウィンブルドンの自宅で逝去。ラウダとは永遠の好敵手だが、実は仲が良く、ラッシュという映画にもそれが見て取れる。
スポーツカーレースでは数多の勝ち星を挙げているが、F1ではなかなか勝てず、勝ったとしてもエンバシーヒルのシュトメレンの事故により打ち切られた75年のスペインのみ。さらに82年、ゾルダーでヴィルヌーブのアクシデントに巻き込まれ、自らもフランスで大クラッシュし引退した。引退後はメルセデスでシューマッハ、フレンツェンらを育成した。
ご存知、本田技研工業の創業者。人真似を徹底的に嫌がり、技術者たちに独自のアイデアを絞らせ、うまくアイデアを出し切れない技術者には手をあげたことも。第1号バイクにはドリームと名付けた。レースが好きで、レースを走る実験室として技術者を育成したのである。そのスピリットは今の技術者に受け継がれる。ハンガリーGP直前に亡くなったため急遽OPが制作されたらしい。
アメリカで修行したのち1978年、セオドールからF1デビュー。ウルフ、フィッティパルディを経て、1982年アランジョーンズに代わりウィリアムズへ。コツコツポイントを貯め、スイスGPの優勝で、ドイツGPで大怪我をし終盤欠場していたピローニを追い越しチャンピオンになる。その後は日本のホンダと関係があり、ダラスで17年ぶりのホンダF1優勝に導いた。市街地コースに強い。
ラインハルトの帝国伯の家に生まれ、1950年代初めはスポーツカーレースで活躍、1957年、フェラーリからF1デビューするが、なかなか結果が出ず、5年目の61年、やっと初優勝を果たし、僚友のフィルヒルとタイトルを争うが、ポイントリーダーでチャンピオンを約束されて迎えた1961年9月10日のモンツァでクラークとの接触から宙を舞い客席に飛び込み観客14名とともに命を落とした。ちなみにチャンピオンはヒルが逆転で獲得。因みにフィル・ヒルの紹介の時にも名前が登場する。
史上最高のレーシングドライバーと呼ばれる、アルゼンチンの巨人。F1初参戦こそ38歳だが、アルファロメオ、マセラティ、メルセデス、フェラーリを渡り歩きながら、51戦25勝、何よりもミハエルシューマッハに抜かれるまで史上最多の5度ワールドタイトルを獲得した。前述の通りフェラーリをドライブした経験があるが、エンツォフェラーリはファンジオが嫌いだったという噂がある。
優勝こそするのだが、あと一歩のところでチャンピオンを逃していく無冠の帝王。ブラバム、フェラーリ、ロータス、ウィリアムズと渡り歩き、最大のチャンスは1981年、僚友ジョーンズとの確執を乗り越えながらポイントリーダーで最終戦を迎えたが、ピケに逆転負け。翌年、フォークランド紛争により引退。今は母国アルゼンチンで政治家に転向した。ラウダには蛇のように冷たいと評された。
日本人初のF1レギュラードライバー、中嶋悟。そんな中嶋がF1にデビューしたのは34歳のとき。かなり遅めのF1初参戦だった。だが、サンマリノで初入賞すると、日本でも入賞した。1989年には大雨のアデレードでファステストラップを記録する追い上げで4位入賞。1991年、惜しまれつつも引退。中嶋と言えば粘りに粘ってポジションを上げていく納豆走法で有名だが、本人は納豆走法と呼ばれるのが嫌らしい。
オーストラリア人初のワールドチャンピオン。クーパークライマックスを駆り、1959.1960と2連覇。そして1966年、ブラバムチームという自らのチームを立ち上げ、そのブラバムで3度目のワールドタイトルを獲得。1970年引退後、その年亡くなったヨッヘンリントのマネージャーだったバーニーエクレストンにブラバムチームを売り払った。
ジョン・サーティース(1934-2017)
イギリス人のドライバーで職人系。1964年、フェラーリでクラークやグラハムヒルに勝ちワールドチャンピオンになる。1966年、チーム内抗争からフェラーリを去った後、1967年、ホンダのドライバーとなり、その年のモンツァで最終ラップの最後のホームストレートでブラバムを抜き逆転優勝。のちに自らの名を冠したサーティースチームを興す。日本GPでの優勝経験もある親日家。本来は91年ハンガリーの予定だったが、本田宗一郎急逝を受けてベルギーの予選日になった。
















