サーキットが建設された当初の名称はその中州の名からサーキット・イル・ノートルダム(Circuit Île Notre-Dame)と呼ばれていたが、1982年に地元ケベック出身のF1ドライバージル・ヴィルヌーヴがゾルダーで星になったため、業績を讃えてその名を冠することとなった。スタートライン上には"Salut Gilles"(やあ、ジル)とペイントされている。公園内の周回道路を利用したストレートをヘアピンと5つのシケインでつないだ典型的なストップ・アンド・ゴー・タイプのサーキットで、優れたトラクション性能が要求される。ダウンフォースを削って走るため高速からのブレーキングが難しく、ブレーキパッドの消耗も厳しい。
フェニックス市街地コース
砂漠のメガロポリス、フェニックスの市街地を駆け抜ける。1989年の初開催時には猛暑となり、タイヤの消耗が激しく晴れのレースとしては非常に珍しくレース時間が2時間を越えたため、翌年より開幕戦に移動し、周回数も減らされることとなった。1991年にはコース前半区間のレイアウトを変更し、ヘアピンと中速コーナーを設けたものの、レイアウトが不評だったのか結局6年の開催契約が結ばれていたにも拘らず、この年を最後に3年で終了した。
サーキット名は1970年代にブラバムに在籍したサンパウロ出身のF1ドライバー、ホセ・カルロス・パーチェに由来する。パーチェは1975年のブラジルGPで地元においてF1初優勝かつ唯一の優勝を達成し、1977年南アフリカGP後に飛行機の墜落により亡くなった。サンパウロ周辺で最大のサーキットであることからF1から国内選手権、地方選手権まで多くのレースが開催されている。サンパウロは標高800mの高原地帯に位置するため天候が変わりやすく、レース中に通り雨が降ることがある。それが数々の名シーンを演出した。路面がバンピーで滑りやすい。
フランス中央部のヌベール市近郊にある。移管当時のミッテランフランス大統領とギ・リジェの故郷であるため、南東のポールリカールから移った際に政治力では無いかと疑惑が上がった。コース路面は非常にフラットな舗装で、かつアスファルトが比較的黒っぽいことから、タイヤの磨耗が大きい。タイヤ交換可能なF1レギュレーション下では、フューエル・エフェクト(燃料量がラップタイムに与える影響のこと)を上回っていた。コース上でのオーバーテイクは難しく、ピット作業以外では順位変動の少ないレース展開が多かった。
カタロニアサーキット
カタロニアサーキット
1991年からスペインGPの舞台となり、1992年以降はヨーロッパラウンドの序盤戦に開催されている。走行データが豊富で、マシンの総合性能が結果に表れることから、以後のシーズンの趨勢を占うことができる。4輪レースではコース幅の狭さもあり、抜きどころの少ないレイアウトとなっている。そのためコース上で順位変動が見られないことが多く、F1スペインGPでは2001年から10年連続でポールシッターがそのまま優勝している。
キャラミサーキット
1985年までレースが開催された後に大改修が行われ、現在の3コーナー~7コーナー間を残し旧コースの反対側に新コースが建設された。新コースは1988年にオープンし、現在の3コーナー~4コーナー間がホームストレートだった。1992年に再度改修が行われ、ストレートで繋がれていた12コーナーと1コーナー間を廃し、13コーナーを追加してストレートを新設した。これによりピットやスタートラインも現在の位置に移動された。F1唯一のアフリカレースである。
ロンドンから北へ高速道路を2時間半ほど走ったノースウェストレスターシャーにある、1931年にオープンしたイギリスきっての名門サーキットである。第二次世界大戦以前からトップカテゴリーのレースが開催されていたが、1939年に勃発した第二次世界大戦中はコースが閉鎖され、軍用車の保管場所として使用されていた。
戦後サーキットとしての利用が再開されたが施設が老朽化し、1977年に所有者が変わったことをきっかけにコースと施設の改修が行われ、それ以降はF3000やF3選手権などのトップカテゴリーのレースが、再び盛んに行われるようになった。たった一度のF1グランプリで見せたあのセナのオープニングラップの追い抜きは神だった。
全長3,703m、コース幅12~15m、高低差29m。メインストレート(約600m)とバックストレート(約700m)を合計13の中低速コーナーで繋ぐ構成の、テクニカルサーキットである。F1を開催したサーキットの中ではやや小規模であったため、F1関係者から「ミニモナコサーキット」と言われた逸話がある。観客席からコースまでの距離が近く、レースの迫力を身近に感じられるのが特徴。コースはショートカット路を使用して、2つに分けることが出来るが、実際のところ一部のイベントを除くと、コースを分割して運営することは稀である。
1990年代に使われたのはインフィールドエリアのみを用いた4.259kmの超低速サーキットであり、タイトなコーナーが延々続くレイアウトであった。再開されるもサーキットの形状が大きく変わったことなどから不評で1998年をもって打ち切られた。1999年も開催予定であったが、主催者とFIAの交渉が決裂した経緯がある。
イモラ・サーキット改良型
1994年の悪夢の後、イモラは大改修された。2件の死亡事故の発生した高速コーナーやバリチェロが負傷したシケインが改修されて新シケインに、シケインだったアクアミネラーリは中速複合コーナーになった。これにより、超ハイスピードコースであったイモラは、ストップ&ゴーの中速テクニカルコースへと改められた。熱狂的なフェラーリファンが多数集まってくるのは相変わらず。
ニュルブルクリンクGPコース
1984年、ドイツGPの開催権を取り戻すべくGPコース(GP-Strecke)と呼ばれる当時の最高水準の安全性を備えたサーキットがフィニッシュコース(Zielschleife)部分を置き換えるような形で建設された。1985年から1987年にかけてビードルシケインが改修され、大幅にスピードが抑えられた。一時はミハエルシューマッハ人気をあてがってホッケンハイムと2つ同時に開催したこともある。2002年に少し改修され、メルセデスアリーナが追加された。
メルボルン市中心部から南へ約2kmに位置するアルバート・パーク内のアルバート・パーク湖を周回する公道と駐車場の一部がレースコースである。このためレース時の路面は汚れており滑りやすいと言われている。コースは比較的広く平坦な高速サーキットである。追い越しできるポイントは少ない。平坦な地形とセーフティ・バリアのため、特別観覧席以外からの展望はそれほど良くない。市街地コースの中では、ランオフエリアは比較的広く取られてはいるが、それでもパーマネントサーキットに比べれば非常に狭く、コースの大半の両サイドが大きな金網とウォールで被われている。2001年にマーシャルがジャック・ヴィルヌーヴとラルフ・シューマッハの3コーナーのクラッシュにより飛び散った破片に当たり死亡する事故が発生してからはフェンスも大きくなった。
A1リンク
F1開催打ち切りのその後、サーキットの利用は減って荒れ果てていたが、新たなスポンサーの出資によってようやくティルケの手による改修を受け、名前もA1リンクに改めて1997年に再オープンを果たした。ホームストレートの途中からバックストレートにショートカットするようになり、名物のボッシュコーナーはコンパクトな中速コーナーとなった。この改修でサーキット自体の面白みはエステルライヒリンクに比べ減少したものの、アクセル全開率の高さ(70%近く)、起伏差が大きく、オーバーテイク可能なところはかつてと同様である。現在はレッドブルリンクに改名していて、F1開催中。
日本に次ぐアジア2つ目のF1開催地。赤道直下なので非常に暑いうえ、さらにはスコールが降ってくる。最終コーナーは左ターン、1コーナーは右ターンのため、ストレートエンドでイン側からアウト側へライン変更が行われる。そのため、イン側の偶数グリッド上にタイヤのラバーが乗りやすい。さらにコントロールラインから1コーナーまでの距離も非常に長いため、偶数グリッドの方がスタンディングスタートでは有利であると言われる。2011年のF1ではこの事も考慮され、イン側が奇数グリッドとなっていた。
インディアナポリス・モーター・スピードウェイは世界で初めて「スピードウェイ」の名を冠したサーキットであり、世界で唯一国定文化財に指定されているモータースポーツ施設でもある。また、スポーツ施設として世界最大の収容能力を持ち、観客席数257,325席、最大収容人数は400,000人になる。F1アメリカGPではオーバルコースの一部に加えて、F1開催のためにオーバルの内側に新設されたロードコース(インフィールド・セクションともいわれる)を使用する。















