2011年のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」は、9歳の江姫(演じるのは当時24歳の上野樹里さん)が本能寺にいる織田信長と交信し、徳川家康の伊賀越えに関わり、明智光秀に説教し、清州会議を盗み聞きするといった内容で、一部の歴史好きから「ファンタジー大河」と揶揄されるほど、現実ばなれした作品として知られています。
「主人公の出番を増やしてほしい」といったNHK側の意向がドラマの演出や脚本に反映されたわけですが、そんなNHKも視聴者の抗議には「フィクションだから楽しんでほしい」と、史実との相違を認めていました。
今夜の「Abema Prime」では、フランスのUBIソフトが開発した歴史もののゲームについて議論されたそうですが、SNSや視聴者の反応を見るに、単純な話ではなかったようです。
番組を見逃した私がざっと追ってみたところ、このゲームが炎上したキッカケはフィクション・ノンフィクションの問題で間違いありませんが、度重なる盗用疑惑や、開発者の日本やアジア地域に対する認識不足、ゲームの主人公「弥助」に関するWikipediaの改ざんと、改ざんされたWikipediaを言質にフィクションが歴史的事実として流布される現状など、騒動はゲームの枠をこえて延焼していました。
ゲームを調べていて(嫌だな)と感じたのは、日本に向けたプレスリリースと海外用のもので、内容が違ったことです。
「歴史の空白を私たちで埋めた」と、日本のインタビューにフィクションを認める発言をする一方で、海外ユーザーには「当時の出来事を忠実に描いている」「封建時代の日本について学ぶことができる」とうたっている。
そして、ゲームの残酷な描写――戦闘で首がはねられたり、まるでゾンビ映画のように頭を踏み潰して殺すアクションの質疑には「これはアサシンではなく、日本特有のことだと思います」と、偏見を助長しかねない説明をしていました。
「当時、死を目の当たりにすることは日常茶飯事でしたし、当時の日本ではほとんどの人が首をきれいに切られて亡くなっていました」
「望むなら暴力シーンをオフにするオプションがあります。血、四肢切断などをオフにできます」
「だから、当時の日本の戦争の様子に忠実であろうとしたのです。死は日常茶飯事で、日本では斬首は珍しい光景ではありませんでした」
(海外ユーザーに向けたインタビューより)
戦国時代において、死を目の当たりにすることは日常茶飯事だったかもしれません。しかしそれは平均寿命の短さや自然災害、飢饉や疫病など、戦争以外の要素が多分に含まれる。
さらに付け加えるなら、源平合戦の一騎打ちと違って、戦国時代の戦争は集団戦です。戦場で敵を殺すたびに首を斬っていては割に合わない。骨や脂肪を斬れば刀がダメになりますし、重たい首を何個も腰にぶらさげるわけにもいきません。
実際の戦闘は「陣が崩れる→敗走」という流れで終わるので殲滅する必要がなく、死者も少なかったと言われています。
戦功を証明するために首を斬ることはあっても、さすがに「当時の日本では『ほとんどの人が』首をきれいに切られて亡くなっていました」は、誇張にあたると感じました。
閑話休題。
(ここから本題に入らせていただきます)
炎上のきっかけとなった「弥助は侍か否か?」という論争については「わからない」というのが誠実な答えでしょう。
NetflixのSF時代劇「Yasukeーヤスケー」のようなエンタメ作品はあっても、弥助に関する当時の資料が少ない※からです。
YASUKEの名前が日本史に登場するのは、徳川家康の家臣で深溝松平家の当主であった、松平家忠という人物の記録。
織田信長が甲斐の武田家を滅ぼした甲州征伐の帰途、家忠は酒左衆(酒井忠次の指揮下にある国衆)の一員として、遠江国(現在の静岡県西部)に御茶屋を建設していました。
3月23日 本栖で普請用の道具を揃える。
3月25日 小屋の普請を開始。
4月 5日 女坂に茶屋を建てる普請を始める。
4月 9日 女坂の普請(道路関連の工事)を行う。
ここで言う「御茶屋」は、一般的な茶店ではなく、織田家の軍勢を休ませ、供応するための場所。
家忠の仕事を「信長公記」に照らし合わせると、道の清掃や整備にはじまり、陣屋・御茶屋・御厩の建設、信長の従者のための小屋の建設、沿道の警護、陣屋や茶屋での一献献上…と、多岐にわたります。
織田信長の安土出陣は、さかのぼること3月5日。
武田家の首実検※をしながら信濃に向かい、17日には諏訪で徳川家康と対面している。29日に旧武田領の知行割を終えると、織田軍は帰途につく。信長自身は4月3日に甲府に入り、恵林寺攻めや川中島の一揆鎮圧を命じたあと、10日には甲府を出て右左口に「御成」した。
(御成は家忠日記に書かれた表現で、室町幕府の将軍の外出を意味する。家忠の信長に対する評価が現れています)
松平家忠が織田軍の警護を担当したのは4月11日で、深溝に帰ったのが14日。弥助が登場するのは、19日の記述です。
上様御ふち候大うす進上申候、
くろ男御つれ候、
身はすみ(墨)ノコトク、
タケ(丈)は六尺二分、
名は弥介と云
家忠は、上様(織田信長)がくろ男(黒人)を連れていて、その名前が弥介(弥助?)だと記している。
もちろん、これは松平家忠が4月19日に弥介を見たという話ではなく、11日前後の出来事を思い返していたのでしょう。19日は雨なので、書くことがなかったのかもしれません。
ちなみに、私が学生時代に買った「信長公記」に弥助の名前は出てきません。弥助の記述がある「信長公記」は加賀藩の前田家に所蔵された写本らしく、信長公記が書かれた経緯や前田家と豊臣家の関係を鑑みるに、原本に近い=松平家忠の記述とあわせると、弥助という人物がいたこと自体は史実で間違いないと思います。
弥助が織田信長に仕えたのは、1581年2月23日と言われています。甲州征伐は翌年(1582年)の出来事であり、6月2日には本能寺の変がおこる。
海外のYASUKEファンの皆さんが気になるのは、この期間に弥助が「英雄的な働き」をしたかどうかという点になるかと存じますが、弥助が織田信長に仕えた約1年4カ月に、戦場で功を挙げるのは「かなり難しい」と言わざるを得ません。
織田信長の甲州征伐のさい、武田勝頼が居城の新府城に火を放って逃亡したのは3月3日、織田信長の嫡子・信忠が甲府に陣を構えたのが7日、勝頼が滝川一益の部隊と交戦し、自害したのは11日でした。
松平家忠日記に書かれた弥介は、織田信長と行動を共にしている。安土を3月5日に出立し、1か月かけて甲府に到着した信長軍の本隊が、武田勝頼軍と戦うことは不可能です。
(勝頼が亡くなる11日は、美濃の岩村にいました)
当時の織田家は、10年近くかかった持久戦(石山合戦)に終止符をうち、畿内をほぼ固めていました。
軍事的にも政治的にも安定期に入った織田信長が、自ら前線に立つ必要性はなく、このころは戦闘が終わったあとに到着することが多くなっている。
天正伊賀の乱でも、実際に戦ったのは織田信雄・津田信澄・丹羽長秀・滝川一益・蒲生氏郷・脇坂泰治・筒井順慶・浅野長政・堀秀政・多羅尾弘光といった武将たちです。
(伊乱記より)
弥助の立場が小姓なのか中間なのか、それとも耳目を集めるためのアイコンに過ぎなかったのかはハッキリしませんが、信長が彼を奴隷として扱わなかった(尾張出身で畿内に勢力を張った信長が、初めて見る黒人に対して好奇心をもった)ことは確かですし、そんな信長の近くにいる限り、戦働きは難しかったと言わざるを得ません。
YASUKEとおもわれる黒人男性の記録には、日本(家忠日記や信長公記)だけでなく、海外由来のものも3点あります。
しかし、イエスズ会の宣教師の報告書において、この人物に名前はなく、cafreと記載されている。
小学館の西和中辞典によると、「cafre」は南アフリカの(バンツー系の)カフィル人を指し、乱暴者や野蛮人などの意味を持つそうです。また、ブリタニカ国際大百科事典には「カフィルはアラビア人がバンツー語系諸族を蔑んで用いた呼称であり、アラビア語で不信心者や異教徒の意味がある」と書かれています。
私はスペイン語やアラビア語が分からないので、この説明を咀嚼できるわけではありませんが、仮に蔑称であるならば、当時の宣教師の認識を表しているように感じます。
「イエズス会は清貧の誓いを立て、奴隷制にも反対しているから黒人差別はなかった」と主張する方もおられます。
確かに、当時の宣教師は永続的な奴隷契約に反対しており、日本における年季奉公(宣教師はこれも奴隷と考えている)のような形に変えるよう、要請したりしています。
しかし、これは「現地民(日本人や黒人)を奴隷として買い取ったあと」の処遇の話であって、奴隷商人はいましたし、奴隷貿易の歴史も消えません。
現代の価値観や多様性は、未来を変えるためにあるのであって、過去を都合よく塗り替えることはできないと考えます。
最後に……。
昔の話になりますが、私は若いころ、歴史ゲームの関連書籍の執筆に参加したことがあります。
ゲームに登場する歴史上の人物のうち、300人分の説明文(紹介文)を3日で仕上げる仕事で、連日の徹夜でした。
3日後。
担当の編集者から確認されたのは、私が書いた歴史上の人物に関する原稿の元ネタ。
参考文献に使っていい一次資料のリストと、会社が制作した二次資料がおくられ、加筆修正したのを覚えています。
私の頭に常にあったのは、史実を扱ったゲームの登場人物に子孫がいるという事実でした。
失礼がないよう、書き進めたつもりです。
昔の話なので今とは状況が違うと思いますが、ゲームを作る時は自由をはき違えることなく、リスペクトをもち、舞台となる国や文化に興味を持っていただきたいと願っています。
※「弥助に関する当時の資料が少ない」事実は大きいです。戦国時代の人々は日記や手紙を多く残しており、価値があるものを誇るような記述もありました。弥助が英雄的な活躍をすれば記録に残りますし、南蛮の奴隷商人が活動する九州で黒人について書かれた当時の日記や手紙が大量に発見されるはずですが、そのような一次資料は全く出てきていません。
(個人の見解を書くなら、ネットの「日本に奴隷はいない」「弥助は英雄的活躍をした」「弥助は信長に奴隷として扱われた」「日本で黒人奴隷が流行った」は、どれも嘘です)
※「首実検」は、戦場で討ち取った首級に死に化粧を施し、その身元を大将もしくは捕虜が確認する儀式。首実検という言葉が使われる場合、その対象は上級武士に限られます。
(上級武士=騎乗が許された身分の武士)