個人メモ用文字としてのEPSEMS性能実験…実際使用(取材記録等)で得られる実用性確認、評価… | 個人用途の新速記法 EPSEMS(エプセムズ)

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 草書派理論(CURSIVE THEORY)に基づく
  日英両言語対応の手書き速記法








個人メモ用文字としての

 EPSEMS性能実験

  … 実際使用 ( 取材記録等 ) で得られる

     実用性確認、評価 …









 愛知県の我が家では、地元紙の中日新聞を購読している。


 この中日新聞の記事から一部抜粋引用してブログ記事を書く場合、「 中日新聞プラス 」 というネット上での同新聞記事の閲覧が可能な場合は、当然ながらそれをコピー、ペイストして済ませるのが基本となっている。


 しかし、他紙 ( 読売新聞、毎日新聞、朝日新聞、日本経済新聞等々 ) や、その他の週刊誌、雑誌などの場合、わざわざ買ってくるわけではなく、喫茶店にあるものを手書きメモしてくることが多い。


 取り上げる記事は、自分自身の興味に誘われてピックアップしており、その基準にこれといったものはない。





 わざわざ手書きメモを取らなくても、画像で拝借して持ち帰る等々、便利な方法はあるが、あえて手書きでやるのには私なりの 「 変態的理由、変人的理由 」 がある。


 EPSEMS速記法の実験、研究、検討のためなのだ。


 そしてまた、結果的に、速記文字のさらなる練習にもなってはいるが … 。





 速記文字の 「 判読性能 」、「 書きやすさ 」 といったものの実験、研究、検討のためなのだから、メモに用いる用紙、ノートについても、できるだけ大きなものではなく比較的コンパクトなものを用いるようにしている。


 コンパクトなものでもOK、実験に合格ならば、皆OKというわけだ。


 およそ10㎝×15㎝ほどの 「 KOKUYO 」 などの大学ノートのミニサイズのものを使っている。


 ノートの各ページに普通文字を横書きしていくのと同様、罫線の進む方向に普通に速記文字を書いていく。


 ページが終われば裏側はその場では使用せずに、めくって見開きの同じ側 ( 綴じの右側 ) のページを使う。


 最終のページまで使い終わると引っくり返し、何も書かれていない裏側の面を順繰りに使うわけだ。





 普通、速記の練習過程を初め、プロ速記においても、大方は用紙を 「 横長状態で横書き 」 にするものだが、個人的なメモ利用を想定して、EPSEMS速記法の実験、研究、検討のため、小さ目の用紙を常用する。


 出先でのメモ等々、現実の多様なるメモ場面を考えたら、「 小さい用紙しか手元にないかもしれない 」 といった状況を想定している。





 筆記具は、よほどのことがない限りはボールペン。


 あえて言うまでもないことだが、最も一般的、確実、現実的で、入手のしやすさ、記録の保存性、気軽さ等々、自然とそうなってくるといったところ。





 このように、手書きメモによる取材 ( !? ) といった一連の行動にはそれ相応の時間を割くことになってはいるが、副産物の一端といったものをあえて挙げるとしたら、「 メモ実験の一連の過程を経ることにより、各々の記事の内容を精読、熟読する 」 といったことを無理やり挙げることができるだろうか!?


 乱読による多読もいいけれど、精読、熟読の趣、深みも捨てがたいと言いたいところか。





 手書きによるメモ実験ということであるが、速記文字で書き、キーボードを叩いて普通文字に訳す。


 さらには 「 ブログ記事にする 」 という前提であることが多いので、記事中に使われている文字づかいまでそのまま表現すべく、速記文字でのメモの際、どういった文字づかいなのか等々 ( 漢字で書くか仮名で書くか、大文字か小文字か、文字のサイズやおおよその字体等々 ) についても、速記文字の近くにメモしておく。





 「 この部分は漢字で書く 」 ということを示しておきたい場合は、それを示すための 「 一定の記号 」 が定めてあるので、それを付しておく。


 固有名詞や自分が知らない漢字、紛らわしい漢字、後で迷う心配がある漢字などは、そのまま漢字を書いておく。


 この場合、速記符号の代わりに、そのまま漢字をそこに埋めておくことも多い。





 また、「 この部分は仮名で書く 」 ということを示しておきたい場合も、それを示すための 「 一定の記号 」 が定めてあるので、それを付しておく。


 もしくは、「 速記文字の下に、その語の頭文字だけでも普通の仮名を書き、できればその仮名を丸で囲っておく 」 等々の方法を用いている。


 ローマ字表記の場合も、「 大文字なのか小文字なのか 」 をメモする。


 「 頭文字だけが大文字である場合 」、「 全部が大文字である場合 」 の違いを示すための一定の記号を用意して使っている。


 そんなこんなの器用貧乏のような、物好きな限りの話ではある。





 そんな中、それなりに速記文字を使いこなしているつもりでも、時折、「 あれっ 」 と後で判読に困ったり、ヘタをすると読めないといったことが起こる。


 情けない限りのようだが、正直なところである。


 書く段階でいい加減に書いたもの、注意力の欠如から来るもの、決して完全無欠のものではなかなかあり得ない速記文字というものの構造そのものから来ると思われる ( 速記文字に責任転嫁する!? ) もの … 、等々によると思われる。


 速記文字を用いる者であれば、プロ、アマを問わず、多かれ少なかれ遭遇したことのある場面ではなかろうか。





 速記文字を普通文字に起こしていく段階で、書かれている速記文字を見てあれこれ思う。


 「 ここはきれいに書けてるな! 」、「 この速記文字、ほんとにきれいだな 」、「 ここは最低だな! 」 等々、一般の方々から見れば実に複雑怪奇な速記文字を見つめながらのシーンだ。


 こういった部分は、書家の心理、気持ちにも通ずるものがあるとも思う。





 速記文字の習得過程では、なおさら自分で書いた速記文字が読めなかったり、なかなか判読するのに時間を要したりもするものである。


 そんな中、文の前後関係、文脈といったものから類推して判読にこぎ着けたり、はたまたこぎ着けなかったり。


 自分自身の国語力、知識、情報量といっものが左右する部分。


 そしてまた、そういった読み書きの修練により、自分自身の国語力、知識、情報量等々といったものが磨かれていく。


 そういった意味では、「 速記の習得、速記の稽古 」 というのは、これは 「 地味ながらも、実益をも兼ね備えた部分を多分に持つもの 」 となっているとも言えるのであろうか。





 速記文字でメモを取り、それを言葉として訳すことができているということ自体に、ささやかな喜びを感じることはある。


 訳せて当たり前で、訳せたからといって褒められたものではないけれど。





 あれこれと書いてしまったが、とはいえ 「 しち面倒 」 とも言える手書き行為。


 そんなことにこうやって取り組むこと自体、嫌いなほうではないのだろう。 イフアイ