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ジャックデリダのブログ

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16世紀終わりごろまで、遊牧騎馬民族が、世界を支配していた。
広大なユーラシア大陸では、ある循環がある。
トルコ・モンゴル系の遊牧民族が、北方のモンゴル高原から大挙して南下してくる。
強大な勢力に膨れ上がり、いわゆる遊牧帝国を形成する。

遊牧帝国は、ある程度まで発展すると、分裂崩壊する。
そこで今まで抑圧されてきたオアシスの定住民が権力を握る。
定着民は、色が白いアーリア系の人種。
遊牧民は、定着民と混血し、定住しはじめる。
そこでしばらく均衡状態が続く。

しばらくすると、また北方から遊牧民がやってきて、戦いが起こる。
この循環が続いていた。遊牧民と定住民が栄枯盛衰を繰り返す。

世界の5分の3を支配下においたチンギスハーンのモンゴル帝国がその頂点。
モンゴル支配下の中国は、元朝と称されている。
モンゴル支配により、中国は大きく根本的に変わった。
朱子学が生まれ、制度もモンゴル流になった。飲食物も、肉料理や香辛料をつかった味付け
麺を食べる習慣も、モンゴル民族がもちこんだもの。

そして、モンゴル帝国は、1368年に内乱が起きて、元朝は中国を失って、モンゴル高原へ引き上げる。
モンゴル人が、中国を失ったのは、宗教秘密結社の白蓮教の反乱による。
赤い頭巾をめじるしにしたので、紅巾の乱と呼ばれる。
明の太祖、洪武帝は、この紅巾軍の出身である。
モンゴルは中国から撤退したものの、まだ中国の何倍もの領土を支配していた。

明の永楽帝は、モンゴル帝国を滅ぼすため、戦争を仕掛けるが、負け続けた。
15世紀中ごろ、元朝は再び勢力を拡大し、1449年、明の北境へ侵入。
これを迎え撃った明の帝は捕らえられ、北京は包囲された。
翌年、明の帝は釈放された。

1571年、明の劉慶帝とモンゴルのアルタンハーンは、平和条約を結んだ。
ようやく草原に平和が訪れた。
モンゴルのアルタンハーンは、チベットを支配し、チベット仏教にほれ込んだ。
そしてモンゴルの国教をチベット仏教とした。チベットが、モンゴルの精神的支柱になった。
教主をダライラマと呼ぶようになった。
このごろ、信長が比叡山を焼き討ちしている。

明朝とモンゴルが平和条約を結んだごろ、スペイン人がフィリピンに植民を始めた。
1571年、マニラ市を建設。ここを基地として、中国相手に貿易を始める。
メキシコの銀が、マニラ経由で大量に中国に流れ込んだ。
そのおかげで、中国は銀本位制に移行し、大発展を遂げる。
中国で、消費ブームで巻き起こる。
朝鮮人参や毛皮が売れるようになった。

そのころ、満州を支配していたのが、ヌルハチ、清の太祖である。
1589年までに、満州の諸部族を統合した。

1592年、日本軍が朝鮮に侵入した。文禄の役。
朝鮮に救援に向かった明軍の司令官、李如松(りじょしょう)は、小早川隆景の軍に大敗した。
そして、翌年、モンゴル族の進入を迎えうち、戦死した。

こうして、明軍は弱体化。
ヌルハチは、明の国境地帯を次々に併合し、1616年、皇帝を名乗る。
危機感を抱いた明軍は、1619年、朝鮮にもよびかけ、8万名の連合軍を結成。
四路からヌルハチの城を攻めたが、大敗した。

ヌルハチは、明を攻め、明の一部を支配した。1626年、ヌルハチは死に、8男のホンタイジが後を継ぐ。
モンゴルは、満州族の攻撃から逃れるため、より西方のモンゴル高原へ逃げた。

1636年、漢人、満州国、モンゴル人と大会議を開き、清朝が建国された。
こうして、モンゴル帝国、満州、中国の一部は、満州人が支配するようになる。

この時、ホンタイジは、朝鮮にも、自分の即位に同意を求めた。
しかし、朝鮮は明に恩があるため、拒絶。そこで、ホンタイジは清軍を率いて、
朝鮮に侵攻、1637年にソウルの南にたてこもった朝鮮国王を包囲し、降伏させた。

1643年、ホンタイジが死ぬ。モンゴル人の皇后が産んだ子供が、即位した。
1644年、明朝は滅亡。正式に、清朝の皇帝が、モンゴル、満州、中国を統治することになる。

降伏した漢人は、服従のしるしとして、辮髪(べんぱつ)を強制。
辮髪とは、前頭部をそり、後頭部の髪を3つ編みにして背後にたらす。
漢人の風俗は満州化した。

日本
明が満州に滅ぼされ、清朝になった。
何度も中国を奪われる漢民族に軽蔑の情が生まれる。
明の遺臣は、2度にわたり清朝皇帝に反乱を起こし、日本に救援を求めてきた。
徳川政権は一度、本気で介入を考えた。
将軍家光は、2万の兵を中国沿岸に上陸させる計画さえもっていた。
しかし、明の遺臣が大敗した情報を聞き、辞めた。

北京は、大都という名で、モンゴル人が建設した都市。
フビライハーンには、世界を構想する計画があった。
まず、モンゴル帝国の権力の源泉に、草原の軍事力をおいた。
そして商業を活性化させようとした。当時、ユーラシア大陸の通商を握っていたのは
ムスリム商業勢力だった。
フビライハーンは、ムスリムの商業力を活用しようと考えた。

西暦1260年代のモンゴル帝国の版図はすごい。
中国はもとより、イラン、イラクなども支配下に入る。
帝国は、ロシア、ウクライナ、ポーランド、東ドイツまで支配下に治めた。
ローマ教皇もモンゴルに使者を送ったり、フランスのルイ9世も使者を送っている。
マルコポーロも、そのころ、フビライハーンの宮廷を訪れ、東方見聞録を書いた。
ユーラシアの東端、西端は、統治を免れた。
すなわち、西ヨーロッパと日本である。
15世紀にモンゴルが衰退した後、ポルトガル、スペインが動き出す。

14世紀後半から、徐々にモンゴル帝国の衰退が始まった。

オスマントルコなど西アジアのイスラム勢力は、ヨーロッパにとって最大の脅威だった。
16世紀に、ウィーンは攻撃包囲され、一度イスラム勢力を追い払ったスペインまでも脅かされた。
1571年に、レパントの海戦で、スペイン艦隊がイスラムをやっつけ、イスラムの脅威はおさまった。


アフリカの北西海岸、モロッコの沖にカナリア諸島がある。スペイン領である。
その少し北にあるマディラ諸島はポルトガル領、アゾレス諸島もポルトガル領。
この一帯の海域で、15世紀、16世紀にかけ、ポルトガルとスペインが戦争をする。
そして、両国の中から、地球を二分割して征服する計画が立ち上がる。

ユーラシア大陸を支配したのは、トルコ・モンゴル系の遊牧騎馬民族だった。
スペイン、ポルトガルは、ユーラシアの騎馬民族と戦うのではなく、西の海へと興味は向かった。
1415年、ポルトガルのエンリケ王子が、アフリカのモロッコのセウタを攻略した。
それから、30年かけ、周辺の諸島を調査した。

ローマ法王は、この試みに心を動かされた。
1450年、決定的に重要な出来事が起こった。
ギニアを越え、アフリカの南端にいたるまでの陸地の征服が、永久にポルトガル国王に帰属する旨の
大勅書が教皇から出されたのだ。
このように、ある地域を領有し、独占的に航海、貿易、布教を自由にできる規定を
デマルカシオン(境界画定)と呼ぶ。1450年は、初めてのデマルカシオン。

他方、海外進出に遅れたスペインは、アフリカ西海岸の島々の奪取をめぐり、ポルトガルと戦争する。
その結果、1479年、両国の間で、アルカソヴァス条約が結ばれる。
カナリア諸島だけがスペイン領、ほかは全てポルトガル領という内容だった。

コロンブスは、マルコポーロにインスパイアされて、大西洋周りでインドと日本に行きたがった。
各国王室を口説いて回るが、ポルトガル、イギリス、フランスの王室に断られ、スペインで採用された。

スペインはちょうどその時、イベリア半島に居座っていたイスラム勢力を追い払い
カトリックが勢いづいていた。スペインは国威発揚と経済立て直しの理由から、コロンブスを支援。
コロンブスがアメリカ大陸を発見した1492年は、スペイン南部のイスラム教徒の最後の砦グラナダが攻略され
ヨーロッパがはじめて反イスラムで一団となり、キリスト教徒として大同団結した年である。

ヨーロッパ人による大航海時代は、イスラム教徒をいかにして打倒するかという
キリスト教の戦闘意識が背景にある。

コロンブスの成功は、ポルトガルに比べ遅れていたスペインの海外展開レベルを一気に引き上げた。
スペイン国王は、発見された新大陸の領有の承認をローマ教皇に求めた。
ポルトガル国王は、カナリア諸島の北はスペイン領、南はポルトガル領という提案を行う。
ローマ教皇アレクサンデル6世の結論はこうだ。
「ベルデ岬より西370グレワの地点から、南北に線を引き、西は全てスペイン領、東は全てポルトガル領とする。」
1494年6月7日、両国でトリデシリャス条約が結ばれた。

そこから、スペインとポルトガルにより地球争奪競争が始まる。
1497年にリスボンを出たポルトガルのヴァスコダガマ遠征隊は、アフリカの南端、喜望峰をめぐり、
インド洋を渡って、1498年、インド西南のカリカットに入港した。
彼らは、カリカットの豊かさと、そこを牛耳ってるのがイスラム教徒という事実に驚く。

ポルトガルは、インドのゴアをアジア攻略の拠点と決めた。
そこにルネサンス様式の壮大な寺院や宮殿を建設した。
そして、さらに東進し、マラッカを占領、モルッカ諸島を支配下においた。
モルッカ諸島は、胡椒、香辛料の一大生産地で、ヨーロッパ人が最大の犠牲を払ってでも手に入れたい島だった。

ポルトガルは、ここを拠点に展開した。
16世紀中頃に、日本と中国に進出した。
ザビエルの来日は、1549年、ポルトガル人がマカオ居住権を得たのは、1557年。
ポルトガルは、ブラジルに進出、ここを世界一のさとうきび畑とし、大量の奴隷をアフリカから連れてきて
働かせた。南米でブラジルだけがポルトガル圏に属するのは、これが理由。

一方、スペインの中南米破壊の歴史もひどい。
1533年、ピサロによるインカ帝国征服。そこから莫大な富を得て、スペインの黄金時代になる。
文学や、宮廷美術の全盛期は、1550年から1680年まで続く。
ポルトガル人でありながら、スペイン王室のために働いたのは、マゼラン。
1519年に始まり、グアムやサイパン、マリアナ諸島まで足跡をつけ、1521年フィリピンで戦死。

マゼラン隊の航海の結果、モルッカ諸島の帰属の問題が立ち上がった。
胡椒と香辛料は、莫大な金になった。食肉の保存のために、防腐剤と脱臭剤、医薬品としても売れた。
1529年、両国はサラゴサで会い、条約を結んだ。
スペイン国王は、モルッカ諸島に関する全ての権利を、莫大な金でポルトガルに売る。
モルッカ諸島の東の地域を拠点に、南北に線を引き、東をスペイン領、西をポルトガルとした。
サラゴサ条約。

ローマ教皇は、全面バックアップしたのであるが、理論的根拠は何か。
1、イスラムやトルコ人はこれまでキリスト教の国土を不当に占拠し続けた。だから、彼らに対する戦争は正当。
2、東洋各地、ブラジルでは、宣教師が危険を顧みず、布教にいった。霊魂の救済を行うのだから、優遇をうける権利がある。 
  彼らの意見に耳を傾けないものに対する戦争は正当。
3、アメリカ大陸の原住民。野蛮な悪習を守り、それをやめようとしない。武力で服従させるための戦争は正当。

人類が神の名において、別の地域の人類を支配し、奴隷化することが許されている。

豊臣秀吉
武力によって、天下統一を果たした。
次に見えてくるものは、世界だった。

当時の世界情勢は次のようなものだった。
ポルトガル、スペインの頂点にはフィリップ2世がいた。すぐ隣の中国では、
ヌルハチが明を破って清王朝を築いた。言うことを聞かない朝鮮を打ち負かしてもいる。

文禄元年1592年、日本軍はプサンに上陸、わずか20日あまりでソウルを占領した。
陣営をおいた名古屋で勝利の報を聞いた秀吉は、関白秀次宛に、書簡を送っている。

「北京に後陽成天皇を移す。都の周辺の10カ国を進上する。そして、甥の秀次を中国の関白とする。
100カ国を渡す。日本の国内の天皇には、皇太子良仁親王かその弟。日本の関白には、豊臣秀保や宇喜多秀家。
そして秀吉自ら、北京に入り、その後、寧波に居を定める。
そこから、諸侯に命じて、インドを好き勝手に切り取らせる。」

秀吉は、これに先立ち、琉球、台湾、ルソンに服属を要求していた。

彼の世界戦略は、ひとことで言えば、モンゴルのチンギスハーン、スペインのフィリップ2世と
同じ視点で世界を見ていた。彼は、明の王や、フィリップ2世など世界各国の王に手紙を送っている。

「自分は太陽の子である。壮年になり、天下統一をめざしたところ、わずか11年で諸国の賊を滅亡せしめ
日本を統一することに成功した。今では、国は富み栄え、民はいきいきしている。やろうと思ってなしとげられないことはない。
予の力にあらず、天の致すところなり」

1591年、秀吉が建てた聚楽第で、ポルトガル人使節団との謁見が行われた。
すでにこの頃、ポルトガルはスペインに併合されていて、フィリップ2世がポルトガルの国王でもあった。
秀吉に届けられた贈答品は、豪華な飾りをつけたアラビア馬一頭、金銀をちりばめた甲冑2組、金の太刀、火縄銃、
時計であった。目録と手紙は、今も京都の妙法院に保管されている。
他方、日本からも刀、薙刀、象眼細工の花、動物をちりばめた甲冑2式が返答品として送られた。
それに添えた手紙で、日本は神道と仏教の国であるから、キリストの宣教師がここで活動するのは好ましくないと書いた。
また、自分が天下統一した話も書き、次は中国を狙っている旨も書いている。
甲冑2式は、今でもマドリードの王室兵器博物館に陳列されている。

スペインは、南ヨーロッパの全域を支配し、中南米大陸を征服、1571年のレパントの海戦で
オスマントルコを破り、イスラム世界も打倒した。マニラを基地としたアジア展開もにらんでいた。
フィリップ2世は、残酷な異端審問で名をはせた、宗教的非寛容のカリスマだった。

秀吉を支えたブレーン
林羅山。華夷変態という言葉がある。世界システムの辺境から、新しい権力が現れ、あらたな生産力を獲得し
やがては中華に挑戦し、崩壊させてしまおうという言葉。
秀吉は失敗し、自滅した。
中国をのっとったのは、女真族のヌルハチ、のちの清だった。

1598年8月18日、秀吉は伏見城で死んだ。
フィリップ2世は、エスコリアール宮殿で9月13日に死んだ。
地球の裏と表で、会うこともなかった。

秀吉が心を許していたのは、ポルトガル人の通訳ロドリゲス。秀吉は、頑丈な船をプレゼントした。
しかし、7年も交流があったにも、かかわらず、キリスト教の話は一回もすることは許されなかった。
貿易は許すが、布教は許さないという態度だった。

スペイン人のフランシスコザビエル。
1549年に、マラッカから鹿児島にやってきた。
ザビエルは、日本は一人の王が支配し、大学があると聞いていた。
王に謁見して、布教を許してもらい、大学で論争して布教するという狙いだった。
大学というのは、比叡山延暦寺のことである。

鹿児島の上陸したザビエルは、領主島津貴久から布教の自由を許された。
寺の境内で、布教活動し、それなりに信者も増えたが、仏教の激しい抵抗もあり、
鹿児島を離れ、京都に向かうことにした。

1551年、京都につくが、室町幕府の末期の京都はあれ荒んでいた。
天皇も将軍も権威を失っていた。比叡山延暦寺は、ザビエルを拒んだ。
彼は失望し、京都を離れる。11日しか滞在していない。

次は、山口に行った。領主に、贈り物を贈った。
時計、楽器、めがね、お酒、織物など珍しい贈り物である。領主から寺を与えられ、布教を許された。
記録によると、訪問者はあいついで訪れた。日本人を魅了したテーマは、天体の運行、雷、雨、月の満ち欠けなど
自然現象に関するものだった。キリストが、天地万物を作ったという思想は、なかなか受け入れられなかった。

ポルトガルからの援助がきれたため、ザビエルは一旦、インドに帰り、宣教師のメンバーを揃えて
来日しようという計画を立てた。しかし、1552年、ザビエルは広東港で熱病で死んだ。46歳。
ザビエルの日本滞在はわずか2年3ヶ月。

15、16世紀は、スペイン、ポルトガル人。
17世紀はオランダ人。
18世紀のイギリス人とフランス人。


アジアには4つの帝国が存在していた。
ヨーロッパの隣に巨大なロシアのロマノフ王朝。
南方の西アジアにオスマントルコ帝国、インドのムガール帝国、東アジアの清帝国。

ロマノフ王朝は、領土拡張を図り、19世紀にはヨーロッパ列強の一員になる。
オスマントルコは、1529年、ウィーンを包囲して、西ヨーロッパを脅かし、1571年、レパントの海戦で
スペインに大敗した。決定的な敗退は、19世紀のクリミア戦争で、ロシアと戦ったあたり。

ムガール帝国は、イギリスとフランスの争奪戦の対象になり、
1757年、プラッシーの戦いで、フランスにイギリスが勝ち、100年後、1858年に
イギリスの植民地となった。

清朝は、満州地方の女真族がたてた国家。
清は19世紀に入ると、急激な人口増、官僚の腐敗、アヘン密輸入、銀の流出などによる財政破綻で
衰退の時代に入った。
清は、アヘン戦争に敗北し、1842年に南京条約を締結、香港を割譲した。

アヘン戦争
イギリスは、清から茶を輸入していた。
イギリスは、メキシコやスペインから買い入れた銀で、茶を購入していた。
これにより、清国の国内には、銀がだぶつくようになった。
イギリスからは銀が流出するため、財政危機に見まわれるようになった。

イギリスは、インド人にアヘンを作らせた。茶の支払いの代わりに、アヘンで支払った。
官僚は腐敗していたので、黙過した。
1838年、道光帝はアヘンの販売、吸引を死罪とした。

自由貿易をうたうイギリスは、艦船を中国に向けてだし、戦争が始まった。
戦争は2年続いた。圧倒するイギリス海軍が海上を封鎖した。1842年、清朝は屈辱の南京条約に調印した。
イギリスは、それにさきだって、香港を占領し、永久居留地とした。

アヘン戦争は、イギリスでは決して輸入を許していないアヘンを清におしつけ
イギリスの財政基盤を支えるとともに、中国大陸ものっとった戦争。

近代日本

イギリス、フランス、ロシア、オランダ、アメリカ、ドイツなどの列強がいたこと。

イギリスのインド支配の完成は、明治維新の10年前、ビルマは明治19年、マレー半島は明治42年。
フランスは清仏戦争で、清からベトナムを奪うのが、明治20年。
インドネシアが正式にオランダ領となるのが、明治37年。南太平洋からはアメリカが北上。
アメリカによりハワイの併合が、明治31年、フィリピン奪取も同じ年。
他方、北からは、港を求めてロシアが南下してくる。

このままでは、朝鮮がのっとられて、次は日本がやられる。

19世紀はじめのヨーロッパにナポレオン戦争があった。
ナポレオンが失脚した1815年に、ウィーン体制が始まる。
ナポレオン時代は、戦争に戦争が相次ぐ動乱期。
フランス革命の精神的余波が、ヨーロッパ中に広まった革命精神の高揚期でもあった。

ウィーン体制は、この反動で、安静、安定、秩序というものを
何よりも望む保守的時代に入る。その中心にいたのが、オーストリアの宰相、メッテルニヒである。
ヨーロッパでは、しばらく平和が保たれる。

しかし、ナポレオン戦争中に、すでにスペインの植民地であった中南米諸国が
スペイン本国が占領された機会に乗じて、次々に反抗ののろしを上げた。
1816年、アルゼンチンの独立、1818年チリが独立、1819年コロンビア、1821年メキシコ
1822年、ブラジルもポルトガルの支配を脱して、独立した。

メッテルニヒは、武力で干渉しようとしたが、
イギリスの反対にあった。イギリスは、中南米市場を自由貿易市場に変えたばかりであり
中南米全域を無敵のイギリス海軍が守っていた。
大西洋世界における平和を守ったのは、事実上、イギリス海軍だった。

1823年、アメリカでモンロー宣言。
南北両大陸へ、ヨーロッパの干渉を拒絶する宣言だった。
この当時、まだ弱小だったアメリカが、世界制覇を目論んでいる。