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ジャックデリダのブログ

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1810年、ロシアはベーリング海峡からアラスカに支配権を拡大。

イギリスとロシアの対立。
陸地を回り、中央アジアからシベリアまで広がったロシアと
海を回って、西大西洋まで艦隊を派遣したイギリスが
どこでぶつかるか。
ひとつは、日本。もうひとつは、北アメリカだった。

イギリスは、自分の勢力圏にロシアが入ってくるのを牽制するため
同盟国をいろいろ変え、ありとあらゆる策を弄していた。

1853年に、アメリカがイギリスやフランスに先駆けて
ペリー来航という形で日本に接近。
ちょうどその頃、イギリスとフランスは、トルコを援助し、ロシアと戦っていた。
クリミア戦争である。1853~1856
イギリスとフランスは、なんとかしてロシアの地中海進出を防ごうと必死だった。
それで、対日接近に一歩遅れた。

幕府軍をフランスが支え、薩長連合をイギリスが支援する。

アメリカは1858年の日米通商条約を最後に、対日接近を手控える。
アメリカが最大の内乱である南北戦争(1861~1865)に突入したからだ。
アメリカは外交上の余裕を失った。
これは日本にとっては幸運だった。

一方、クリミア戦争にまけたロシアは、海への出口を失った。
そして、東北アジアへの進出を考えだす。ロシアはウラジオストクに軍を集結。
ロシアはいち早く、千島列島と樺太を手に入れた。
1869年、ロシアは樺太の領有を認めるよう日本に求め、日本は拒否。
明治の新政府ができてから、樺太は諦めた。代わりに千島列島の領有権を得た。
1875年千島、樺太交換条約。

イギリスは、1875年、インドでセポイの大反乱を処理し、アヘン戦争を終結させたあとの中国で
アロー戦争(1856~1860)を起こして、清を屈服させ、九竜半島の一部を割譲せしめた。
当時最大の帝国のイギリスは、ロシアが日本に迫ったのが気に食わない。

そこでイギリスは日本を支援することに決めた。

欧米列強の最大の関心は、中国だった。
ここでもイギリスとロシアは、正面から対立している。

この時代はどの国が覇権をとるかが重要だった。
「ヨーロッパで列強と呼ばれる国は、世界に膨張しなくては、三流になる」ということが言われていた。


19世紀末、イギリスとアメリカで戦争の可能性があった。
それは、ガイアナという大西洋に面するラテンアメリカの国。当時はイギリスの植民地であった。
そのガイアナが隣国ベネズエラと国境紛争を起こす。イギリスが介入する。
ベネズエラはアメリカに仲介を依頼する。アメリカがこれをうけて、イギリスに調停案を出すと
イギリスは拒否した。そこでアメリカは腹をたてる。
アメリカのある新聞は、「戦争も辞さず」という見出しの記事を書いた。
結局、戦争はなかった。

イギリス、ロシア、アメリカがどんどん領土をひろげ膨張していく時代であった。

朝鮮は、日本の砲艦外交で開国した。各国に窓口を開き、1882年までにアメリカ、イギリス、イタリア、ロシア、フランスが
ソウルに在外公館を置いた。

その頃、朝鮮は親日派と反日派に分かれていた。親日派は、反清派であった。
日本は、朝鮮では改革派官僚と手を組んだ。進歩勢力と手を組んだ。当時のミン政権は、親日政策をとり、
日本人将校を招いて日本式軍隊の訓練をはじめた。
この動きをとめたのが、清。清は、ソウルを軍事体制化に置き、直接李朝を支配した。
各国の干渉を排する挙に出た。
ミン政権は、清への依存度を高めた。

日本との提携で、独立し近代化を達成しようとしていた改革派は、窮地に陥った。
そのグループの代表が金玉均(キムオクキョン)福沢諭吉の影響を受け、
明治維新を模範にしようとした国家改造に情熱を燃やしていた。
朝鮮の政治は2派に分かれた。日本派と清国派である。
2派の抗争の果て、1884年、金玉均は日本公使館の支援を受け、クーデターを実施。
清が出動し、直ちに鎮圧、日本公使館は炎上した。
在留邦人40人以上が虐殺された。
金玉均は日本に亡命し、のちに上海で暗殺され、売国奴として朝鮮で遺体が八つ裂きにされたと言われる。
福沢諭吉は、金玉均の暗殺を契機に、朝鮮に絶望し、アジアとの共闘を断念、日本一国で近代化していこうとする。

ウラジオストクに拠点を置くロシアは、東北アジア全体の情勢を見ている。
中国からすでに満州鉄道の建設権を手に入れている。
イギリスは、朝鮮の巨文島を占領した。ロシアは怒って、朝鮮の一部も占領すると発表。
清が仲介に入り、ロシアもイギリスも撤退した。

その頃、ヨーロッパでは、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対し
ロシア、フランスの同盟強化があった。そして、アフリカ分割の幕が開きつつあった。

朝鮮では、清国派と日本派が抗争をしていたが、清の支配権が強化されていた。
そして、それをロシアとイギリスが牽制していた。
朝鮮に、農民の反乱がおき、李朝は鎮圧できかねたため、清に応援を依頼。
日本は認められず、朝鮮に出兵して、日清戦争が始まった。
日本は、不平等条約に手足を縛られた半植民地国家であった。
福沢諭吉は開戦論者だった。

日清戦争で勝利を収めた。
欧米列強は、勝利を喝采し、日本に対する彼らの特権をあいついで放棄した。
朝鮮は、初めてこれで中国から解放され、独立国となった。

ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉の結果、日本は中国の遼東半島の領有放棄を強いられた。
しかも、そこを2年後、ロシアが租借した。
ここへきて、日本はまだ弱小国であることを再認識するとともに
富国強兵が、全国民共通の目標としてエスカレートしていく。
「臥薪嘗胆」が国民的な合言葉になった。

そして10年後、日露戦争がおきる。

19世紀末から、20世紀の初頭にかけ
中国の分割は、まるでアフリカのように進んでいた。
満州にロシア、山東省にドイツ、華北、揚子江地域、香港にイギリス、雲南省にフランス。
1900年、外国勢力に進出は、中国人の反発をかきたて、義和団事件が起こる。
清は、各国に対して宣戦布告、ドイツと中国の公使館員が惨殺された。北京の外国公館を北京政府が襲った。
13カ国が清に出兵し、日本も出兵し、鎮圧した。

この事件を機に、ロシアは満州と内モンゴルを保護領化し、清国に派兵した軍を撤兵させず
朝鮮国境に砲台を建設、シベリア鉄道で軍の輸送を開始した。

1902年、日英同盟。
中国に介入した西欧諸国の中で、イギリスとロシアは最大のパワーだった。
イギリスとロシアは、中国で利益を奪い合った。日英同盟は、日本がロシアと戦うことを想定して結ばれた同盟。
日本はイギリスのバックアップもあって、いわゆる大国の仲間入りをすることができた。
日英同盟は、1905年と1911年の2度にわたって、更新された。

日本は日露戦争で勝利した。
イギリスは日本に教えたことは、大国になった以上、義務が生じるということだ。
あらゆる大国とのパワーバランスを保ち続ける必要があるということ。
フランスはインドシナに植民地を所有していることから、日本との協力関係を求めてきて
1907年、日仏協約が結ばれた。日本とフランスは、朝鮮支配、インドシナ支配を相互に認め合う。
アメリカとも1905年、朝鮮支配とフィリピン支配の相互承認する。
1905年に、イギリスとも、日本の朝鮮支配を認める代わり、インド防衛の同盟義務を負っている。
いろんな世界の取り決めの中に巻き込まれた形になった。

日本はロシアからの復讐を恐れた。
ヨーロッパではこの頃、イギリス、フランス、ロシアの三国協商が成立。イギリスとロシアの積年の対決は後退した。
それに対し、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟が形成されている。
1907年、日露協商が結ばれ、日本の朝鮮支配、南満州支配、ロシアの内モンゴル、北満州の支配が合意された。
日露協商は、ロシア革命1917年で、無効になるまで4度続いた。
その4度目の更新の内容は、アメリカの中国支配阻止と、どちらかが戦争に巻き込まれた場合、相互援助義務だった。

アメリカ

占領期のダグラス・マッカッサーの父親は、アーサーマッカッサーという。
有名な軍人で、南北戦争の将校であった。西部フロンティアでインディアンと戦い、フィリピン征服戦争1902年にも
参加した将軍だったという話がある。
彼の息子は、第二次世界大戦下の太平洋で指揮をとった。
フィリピンで日本軍と死闘し、一度フィリピンを終われ、また戻ってきて戦勝者となった。
この二人の親子の物語は、西部開拓のインディアン掃討戦、フィリピン征服戦争、第二次世界大戦という
3つのアメリカの戦争が時代的に近いものであったことを考えさせられる。

アメリカが急激に膨張したのは、イギリスが中国沿岸で、アヘン戦争を起こした頃。
1846年に、メキシコと戦争、テキサス、ネバダ、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコ、コロラドの大部分を手に入れた。
その余波をかって、ペリーが日本に黒船でやってくる。メキシコとの戦争が終わってから5年目のことだった。

それからアメリカは南北戦争に突入する。(1861~1865)
そして膨張は足踏みする。それから1867年に、ロシアからアラスカを購入し、しばらくはおとなしかった。

世界強国への道を歩みだしたのは、1898年、スペインとの戦争が始まりだった。
アメリカはそれに先立って、ハワイを侵略、スペインとの戦争で、プエルトリコ、グアム、フィリピンを押さえた。
さらに独立を求めたフィリピンとの3年半の戦いで、フィリピンを完全に植民地にした。
加えて、ウエーク、サモア、ミッドウェー等を押さえた。
中国への利権を目指して、アメリカが西へ西へと領土を伸張させていた。

スペイン人によるインディオ征服は
アメリカの初代大統領のワシントンは、インディアンを猛獣と称し、狼と同じだが形が違うと言った。
第三代大統領はトマスジェファーソンは、インディアンに向かって、わが子供たちと話しかけた。
第32代大統領のフランクリンルーズベルトは、日本人が凶暴なのは、頭蓋骨の形態にあると信じていた。
第26代大統領のセオドアルーズベルトは、アメリカインディアンの事実上の絶滅を指示すると公言した。

日本人移民がアメリカに到着する前、中国移民が大量に存在していた。
中国人労働者は、大陸横断鉄道建設の労務者として連れてこられた。
1854年、白人のかかわる裁判で、中国人は証人となることを禁じられた。
すでにインディアンが同様の措置を受けており、インディアンと中国人は同じ人種だからという理由。
1879年、カリフォルニアの州憲法は、中国人に対し、精神遅延、精神異常という理由で、参政権を拒否。
3年後に、中国の移民を禁止した。
そして、その直後、日系移民が登場する。

1904年、アメリカ陸海軍の統合会議が開かれて、世界戦略の研究に着手した。
戦争が始まったとき、それぞれの国とどのように戦うかという計画策定案だった。
ドイツを仮想敵国にしたのが、ブラックプラン、イギリスに対してはレッドプラン、日本に対してはオレンジプラン
南米はまとめてパープルプラン、カナダに対してはクリムゾンプラン、メキシコに対してはグリーンプラン。

日比谷焼き討ち事件
日露戦争が終わった時期、ロシアからは樺太を譲渡されただけで、賠償金がとれなかった日本に対して
大衆は不満で、大勝利に対する粗末な外交ということで、日比谷の騒乱になった。


1908年3月、突如、アメリカは威嚇行動に出た。
アメリカの大西洋艦隊を、太平洋に集結させ、日本近海に近づけた。
日本の連合艦隊の2倍もあるアメリカの艦隊の接近は、日本を恐怖に陥れた。
白船来航。
船は、白いペンキで塗りたくられていて、グレートホワイトフリートと呼ばれていたので、
日本人たちは、かつての黒船と区別し白船と言いはじめた。
アメリカの大西洋艦隊は、16隻で構成されていた。日本には7隻しかない。
アメリカにしてみると、日本をこのままほうっておくと太平洋の軍事バランスが崩れるということ。
なぜならば、ロシアのバルチック艦隊を破った世界有数の日本艦隊が覇権を握るからだ。
そのため、威嚇行動に出た。

フランスのジャーナリズムは、日米戦争がはじまると書きたてた。
対米戦争に負けたばかりのスペインから、軍資金の援助をするので、遠慮なく言ってほしいとの申し出もあった。
日本人は心の底から、驚いた。アメリカでは、明日にでも日本が攻めてくるというキャンペーンが一斉に開始された。

日本はどのように対処したか。
友好国キャンペーンを一斉に展開した。朝日新聞は、米艦歓迎英語会話欄を設けた。市内見物のアメリカに対し
どのように接するかのマニュアルを載せた。白船が横浜に入港した際、朝日新聞は、歓迎歌を載せている。
眠れる日本をおこしてくれてから、50年になる、いさめてくれたお陰で日本は栄えた、友よ、感謝するという内容。
日本のマスコミは、一面でアメリカに媚を売り、2面で国民に粗相のないようにと説教した。
新橋駅のホームには、千名の小学生が、星条旗よ永遠なれを歌った。艦隊の幹部たちは、晩餐会に引っ張りだこだった。

日本から白船が去って2週間後、日本の連合艦隊は九州の東南沖で演習を行った。
艦隊を3班に分け、1班を奄美大島を占領したアメリカ軍とし、2、3班にこれを迎撃する訓練を行った。
アメリカを熱狂的に歓迎攻めにしておいた後で、彼らが立ち去るとたちまち豹変した。

1913年、アメリカに日米戦争に備え、軍艦三隻を動かそうという開戦説が浮上した。
外国人土地法。
日本人は、アメリカ市民権を取得できない資格剥奪者は、土地所有権を奪われるという法律。
きわめて露骨な日本人を狙い撃ちした法律であった。
日本政府は、アメリカに猛烈に抗議した。大統領ウィルソンは、日本は戦争を予定しているのではないかと憂慮し
ワシントン政府は緊張した。

海軍作戦部長ブラッドリーフィスク少将は、このカルフォルニア土地法を開戦理由として
日本がフィリピンとハワイを奇襲するであろうから、それに備えて軍艦三隻を派遣するよう提案した。
ウィルソンの判断で、これは見送りになった。

第一次大戦の戦後処理をしたパリ講和会議で、日本政府代表が人種平等に関する提案
いわゆる人種差別撤廃法案を提出した。