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ジャックデリダのブログ

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同じころ、アメリカの黒人たちも、国際会議で人種問題がはじめてとりあげられるのに色めきだった。
黒人たちは、パリ講和会議へアピールする準備にとりかかり、日本政府をサポートする考えだった。
4人の著名な黒人が、会議に先立って日本使節団をたずね、世界中のあらゆる人種差別と偏見をなくすことに尽力してほしいと
嘆願書を出した。国際連盟にではなく、日本政府に嘆願書を出した。

ウィルソン大統領は、世界秩序回復のための14箇条を手にパリに乗り込んだ。
日本代表は、15番目の提案をもって、講和会議に出席。
「わが大日本帝国は、国際連盟の盟約として、人種平等の原則が固守されるべきことを、ここに提案する」
全米黒人新聞協会は次のような声明を発表した。
「われわれ黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい激論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」
「全米1200万の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」
結局、この法案は通らなかった。

1913年、外国人土地法がさらに強化された。
日本人は事実上、農業の仕事から追い出された。
1924年、排日移民法が連邦議会において可決された。
これにより、日本からの移民は、人種的な理由をもって、全面的に禁止された。


アメリカ
ペリーが1853年に来航した時は、まだアメリカは一等国ではなかった。
当時の一等国は、イギリス、フランス、プロイセン、オーストリア、ロシア。
アメリカが大国の仲間入りしたのは、1890年にハワイを植民地にし、フィリピンを領有してからである。
つまり、日本が日清、日露戦争で勝ち、大国への一歩を踏み出した時期と一致する。

ハワイ、グアム、フィリピンを結ぶ線をアメリカが新国境と定めた20世紀初頭、イギリスはアメリカの支配を容認し
西太平洋からイギリス艦隊を撤収させている。イギリスの当時の関心ごとは、ロシアであった。

第一次大戦で日本が攻略した山東省の青島(チンタオ)の権益は、ドイツから日本に渡ったが、
アメリカはそれを中国に返還するよう要求した。

アメリカがこうして、日本を押さえ込みにかかった最も決定的な出来事が、1921年のワシントン会議。
会議には、日本、イギリス、フランス、イタリア、中国、オランダ、ポルトガル、ベルギー、アメリカが参加した。
テーマの第一は、海軍軍縮問題。第二のテーマは、極東、太平洋問題。
この会議で、米英日の主力艦の比率は、5・5・3になった。
そして、日英同盟が破棄された。山東省の青島の中国返還が決まった。
日本の満州における特殊地位も、廃棄された。
こうして、日本の中国進出の既得権益は、全て否定された。
ただし、イギリス、フランス、オランダの植民地支配における既得権益には、ひとつも触れられていない。

ワシントン会議が開かれた年に、ソ連は内モンゴルに進入し、モンゴル人民革命政府を樹立した。
そして同じ年に中国共産党が結成されている。

シベリア出兵が1918に起こった。
イギリスとフランスが、日米に働きかけて実現した。出兵をしぶるアメリカに、英仏は総力をあげて説得した。
使節団まで送った。その時の使節団の団長は、哲学者ベルグソン。
シベリアに孤立しているチェコの軍隊を救うというのが、当初の目的だったが、
日本は戦線を拡大し、撤兵を遅らせた。

1941年12月25日、香港の英軍降伏
1942年1月2日、マニラ占領、2月15日、シンガポールの英軍降伏、3月8日ラングーン占領
3月9日ジャワの蘭印軍降伏、5月7日、コレヒドールの米軍降伏、日本の緒戦のめざましい勝利はここまで。

戦局の一大転換となったのは、運命のミッドウェー海戦は、6月5日~7日。
これ以後は、米軍の大反攻がはじまり、日本は負けていく。
8月7日、米海兵1個師団がガダルカナル島に上陸。8日、第一次ソロモン海戦。
8月21日、ガダルカナル島奪回のため上陸した日本部隊は全滅している。

徳富蘇峰のような愛国主義者から、平野義太郎のようなマルクス主義者まで
400年にわたるアングロサクソンによる支配と束縛から、東洋民族を解放する声は高まっていた。
国民は、戦争の大義の中に、アジア解放が含まれていることは、理解していた。

ベトナム戦争が終わってから、1978年にベトナムが突如、カンボジアに侵攻した。
中国は、懲罰するといって、ベトナムに攻め入った。共産主義国家同士の戦争であった。

1995年来日したヴァイツゼッカー前ドイツ大統領は、名古屋で講演した。
12年にわたるナチス支配は、ドイツ歴史における異常な一時期であり、その一時期だけナチスという暴力団にのっとられた。
今は、ドイツは彼らを追い払って善良な国民となった。
ドイツ国民はそう主張する。

1945年、玉音放送があった。天皇陛下は一億玉砕しろ、最後まで竹やりで戦えとは言わなかった。
陛下は、一部の軟弱分子に強制されたのではないか、そういう流言がひろまり、米軍を迎え撃つ決死隊が
茨城県筑波山に立てこもったという噂が流れた。

アメリカが、占領政策を展開した。
一般国民と支配階級を区別し、前者に罪はなく、後者に罪はあると言った。
指導者を一新し、一般国民をよい方向へ誘導する必要があると言った。
日本国民の敵は、連合軍ではなく、日本の支配階級であると宣伝し、自らの敵意を逸らした。
War guilt information program ウォーギルトインフォメーションプログラムが、実行された。
戦争に関する罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画である。
ここで、日本国民の精神の改造が企てられた。

イギリスと香港、イギリスとシンガポール、フランスとベトナム、アメリカとフィリピン。

1875年、ヨーロッパが所有していたアフリカの土地は全体の10分の1だった。
それが20年後になると、全体の10分の9が、ヨーロッパの列強の手に入る。
サハラ以南で残った独立国は、エチオピア、リベリアのみ。
1885年にヨーロッパの大国の間で調印されたベルリン条約では、争奪戦を行うルールが決められた。
それによると、アフリカのある地域を実効ある占領のもとにおいた時は、ほかの政府に知らせることになっていた。
そうすることにより、その国は、占領地の所有権を獲得した。

1878年、ベルリン会議。
ヨーロッパの国境が画定された。それを変えようと思えば、戦争をするしかなかった。
だが、当時最も強力なのはドイツで、宰相ビスマルクは平和を望んでいた。
ヨーロッパには勢力均衡状態が、存在した。
そこで各国は、領土を広げようと思うと、ヨーロッパ以外に目を向けた。
弱体で防御力のないアフリカでは、槍で戦う原住民を相手に楽な戦争ができた。
ビスマルクはこうした戦争を「スポーツのような戦争」と呼んだ。

オーストリアは、海軍がなかったため、参戦しなかった。
ロシアの興味は、アジアへ向いていた。

アメリカの教科書
「これがアメリカの歴史だ」
人間の活動や関心は成長するにつれて変化するものだ。
少年期は、学業、スポーツ、青年期は職業をもち、結婚し、家族を養う。より良い仕事に就こうとし
政治参加、地域活動、さまざまな活動に従事する。国家も同じような強国になれば、活動も違ってくる。
若いアメリカは、未開の地を開拓し、西方への道をたどった。産業も発展させた。
そうすれば、国家の関心が世界に向けられるときがやってくるのは、当然だろう。


ヒトラー
ヒトラーが文書で出した最初の大量殺戮命令は、ドイツの国内の病院に向けられた。
療養所、看護施設にいるドイツの病人7万~8万。障害者1万~2万、3歳~13歳までの心身障害児など児童3000人
神経病院にいる全てのユダヤ人、合計10万が職権により殺害。いわゆる安楽死。
この命令は、教会の反対で2年で中止された。

次は、ドイツ国内、東ヨーロッパの占領下の国々のいたるところで、ジプシーが捕えられた。
絶滅収容所に送られ、皆殺し。犠牲者の数は50万人にのぼるといわれる。
1939年にドイツ居住のジプシーは25万人、1945年には5000人しかいなかった。

ポーランド占領直後から5年間、この国の知識分子、指導層が、組織殺戮の犠牲になった。
牧師、教師、大学教授、新聞記者、企業家が、殺された。

東方における非ドイツ系住民には4学年以上の小学校教育は必要でないとしている。
500まで数えられること、名前を書けること、それ以外は、ドイツに従順であればよいとされた。

ロシアに対して、皆殺し、奴隷化計画がたてられた。
演習としてポーランドが選ばれた。600万人が殺された。うち300万人はユダヤ人。

ロシアに対しても、指導層の皆殺しと住民の奴隷化が進められたが、数は不明。
1944年5月1日の文書によると、516万のロシア兵がとらえられ、47万人が処刑、300万人が捕虜収容所で餓死。

ナチスの計画