うみへいく -8ページ目
今朝も、18才になった長男は時間通りに家を出て大学へ向かいました。
とても元気です。

今はポケモンにはまっていて、中学生の次男と一緒になってゲームのはなしに高じています。


昨日は次男の13回目の誕生日で、ポケモンセンターとYOSHIKIさんのピアノコンサートへ連れていきました。
(次男はピアノ好きで、特別YOSHIKIさんファンとかではないのですが、天皇陛下に曲を捧げた人ということで、生演奏を聴きたがっていたのです)

そのポケモンセンターで次男にクリスマスプレゼントとしてぬいぐるみを買うついでに長男にも買って帰り、大学生になってもそのぬいぐるみを見て大喜びする姿に、母としては少し複雑な気持ちになりつつ(笑)、家を出て行く姿を見送りました。



そんな長男がまだ幼稚園に入る前のある初夏の日。


私は長男を連れていつもの公園に行き、広くて大きな滑り台の上で、心地よい風を受けていました。

天気もよく爽やかで、風は横に生えていた大きな木の葉っぱをさやさやと揺らして音を出していました。


長男はその葉擦れの音が気になったのか、じっと木を見上げていました。私は彼の背の高さに合わせてしゃがみこみ、一緒に見上げてみました。

たまたま他に子供がおらずとても静かでした。


長男は真剣な顔で葉っぱを指差して「ママ、揺れてるよ」と言うのです。

「本当だね。あれは誰が揺らしているのかな。見えない人が揺らしているのかな?」

と答えると、長男は表情をかたくして尚一層木を見つめました。

「しゃーって言ってる」

葉擦れの音は私にはさらさらと鳴って聞こえていましたが長男には少し怖かったのかもしれません。

「大丈夫。あれはね、風さんが通って葉っぱさんを鳴らしているんだよ。綺麗な音でしょう?って風さんがあおに聞かせてくれてるんだよ」

そう言うと、長男は不思議そうな顔のまま、じっと静かに立ち尽くして飽きるまでその音に聞き入っていました。



長男との生活は、常に「動」なのです。

けれど、この時ばかりは私たち親子は間違いなく「静」の空間のなかに佇んでいました。



この記憶と光景はいまだに私の脳裏に鮮明です。長男は忘れていると思いますが、私たち親子にとってとても珍しいひとときだったからです。


今思い出しても泣きたくなるような、懐かしく、暖かく、愛しい時間でした。



「静」の時間はもしかしたら長男が健常児だったなら、私は当たり前にそれを手にして、息子と共に葉擦れの音を楽しむことなどなかったのかもしれません。

当たり前にそれがあったならば。




私は死ぬまでこの記憶を脳裏に刻み付けておきたいのです。



あの時の長男はもうここにはいません。



いつのまにか大学生になって外では「普通の子のふり」をすることが出来るようになりました。



あの初夏の静かな時間、彼はほんの少しこちら側の世界に足を踏み入れた瞬間だったのかもしれないと今は思うのです。



自閉症の子供が住んで見ている世界は、健常と言われる私たち側の世界と連続していながら異なる世界です。違う世界に手を差し出すのはとても困難で勇気が要るのですが、あの時の長男は幼いゆえに、わからないまま、思わずこちら側に触れようとしたのではないかと、私は思っています。



春には桜の花弁を、夏には蛙のたまごや蝉を、秋には紅く染まった落ち葉やどんぐりを、冬には舞い降りる雪を、

私は彼と共にそれらに触れては彼をこちら側へ引っ張ろうと、無意識のうちにしていたのかもしれません。


彼の目に映っている、私が美しいと感じた自然の世界はどんなものだったのか、あちらの世界からはどう見えていたのか、今も私にはわかりませんが。


長男もきっとわからないでしょう。

健常と言われる世界が、彼には不思議で怖くて、異質な世界なのですから。


それでも長男は、こちら側に合わせる術を身に付けました。

私はあちら側に触れることさえ出来ないのに。



息子はどんな思いでこの18年間を生き、自分自身に折り合いをつけてきたのかと思うとき、幼い頃にたくさん怪我をさせてしまった罪悪感より強い思いで、息子の世界に触れることもできない母親でごめんなさい、と想わずにはいられないのです。


ストレスやパニックのときに、他害ではなく自傷を選び続けた私の長男に、ごめんなさいと。



続く


厳しい、命がけの妊娠生活を終えて、体調も心も戻らぬまま、私は生後2ヶ月の初めての赤ちゃんを連れて、奈良へとやって来ました。

社宅だったので良い面も、逆に大変な面もある場所でしたが、自然環境は良くて、長男には楽しい場所だったようです。


ここには5年間住むことになりました。


長男は健診ごとに特に異常は報告されず体はどんどん大きくなり、産まれた時の鶏ガラのような姿は想像もつかないようなつやつや、ぷるぷるした乳児になりました。


初めてのことでわからないながら、育児書や他のお母さんからお話を聞いたりしながらがむしゃらに育てていたと思います。


母乳もミルクも飲む量は少な目でとても時間がかかり、そうやってようやく飲ませたそばからまたお腹を空かして泣いたり、また、夜泣きも激しく(これは1年間続きました)、赤ちゃんてなんて大変なんだろう、と長男と一緒に泣きながら授乳する日もありました。

とにかくよく泣くわけです。


お腹は空いてないか、オムツは濡れてないか、熱はないか、暑くはないか、寒くはないか、あらゆることをチェックしても、彼が泣く理由を突き止めるのは難しく、こちらも必死であやしたものです。

絶望する日もあったし、ベランダから落としてやろうかと思う日もありました。

ベビーカーに乗せて散歩していても、まるで泣き声のサイレンを鳴らして歩いているようで、すれ違う人に見られることが苦痛でした。



そうして離乳食も始まり、歩行器を使って移動するようになる頃、夜泣きがおさまりましたが、入れ替わりで夕泣きが始まりました。
まるで時計のように正確に18時が来ると唐突に泣き出すのです。

もちろん理由はわかりません。


ゆらゆら椅子に寝かせて、片足でそれを揺らしながら夕飯の支度をしたり、誰もいなくなった薄暗い公園で長男を抱っこして歌を歌いながらブランコで揺れてみたり、マンションの最上階に上がって夜景を見せたり、車に乗せて走ったり…それはもう思い付く限りのことをして泣き止ませようと試みました。

食事の時はエプロンをつけても、スプーンやフォークはそっちのけで両手で直に食べ物を掴み、食べ散らかしては服を汚し、ヨーグルトなどは手を突っ込んでかき回し、どう教えても笑いながら遊んでしまって、結局私が口に運ばなければ食べない、という事態。

それをいろいろな人に相談しても、お菓子を食べさせるからよ、遊びが足りないからよ、お母さんが口に運ぶからよ、と言われてしまうわけです。

それらのことは既に試みた上での相談ではあったのですが。


ちゃんと食べてくれないことに私は何度も怒りを露にしましたし、号泣が始まると、一旦彼をリビングの椅子の上に固定したまま残して、別室で耳を塞ぎながら心を落ち着けてみたり、今思えば本当に野性動物との戦いのようだったと思います(笑)。


そして、歩行器が大好きな彼は、乗せてやると玄関口からリビングまでの廊下を、車ならスピード違反で捕まりそうな勢いで(笑)、シャーッと滑りまくるのです。飽きることなく、何度も往復していました。
その姿にはおおいに笑わされましたが。




特徴的だったのは人見知りをまるでしないことでした。

同時に母親の私がいなくても気に成らない、後追いをしない、そうまるで誰も見えていないような、見えている人物は全て彼にとって同じような、そんな反応です。

人見知りをしないということは愛嬌があると受け取られて、可愛いわね、と言われることもありましたが、平気で私から離れてしまうので自立歩行が始まって以降は更に大変なことになりました。



自立歩行開始後、彼は電話中の私の目を逃れて玄関から外へ勝手に出てしまい、階段を転がり落ちてギャン泣き、まさか一人で外に出るとは思っていなかった私が電話を切る頃、外から聞こえる号泣にビックリして駆けつけると、顔面血塗れになっていたことや、玄関前の階段を何度止めてもどうしても這って昇りたがり、こけて目の上を切ってしまったり、

また、室内では隠しておいたハサミをどういうわけか見つけ出して、私が少し家事をして離れていたすきに、そのハサミで目を突いてしまったり、或いは家の鍵を見付けてコンセントに突っ込んで感電したり、とにかくたんこぶ、切り傷、擦り傷、エトセトラ……彼には生傷が絶えませんでした。

つまり24時間横に張り付いて見ていなければ危ない、という状態にありました。


一緒にスーパーへ買い物に行けば、手を繋いでいても一瞬でいなくなり、探し回って買い物どころではなくなりました。

油断しているとお菓子を勝手に食べたりもしてしまうのです(レジを通す前の)。


注意すると号泣です。



そういった日常を親や知り合いに話せば私が怒られました。

ちゃんと見てないから怪我をさせる、危ないものを手の届かないところにおかない親が悪い。


けれど、それらのことにこちらも注意は払っていたし、できる限りのことはしていたと思っていたので、責められるととても苦しい気持ちになりました。


電車など公共交通機関の乗り物に乗せればじっとしてない、大声で話す、泣く、プラットフォームで待ってる間に、柵の隙間に頭を突っ込んで抜けなくなる、とにかく歩けば怪我をする、問題を起こすわけです。電車内で他の乗客から激しく罵られたこともありました。



長男にはこちらの言葉は届かないのですが、そんな事情はまわりにわかるわけもないですよね。
私は長男を連れて歩くときは常にいろんな人に謝っていたように思います。


「小さな男の子なんてそんなものよ」

もよく周りから言われました。男の子なんだからやんちゃでいいのよ、など。そのくせ問題が起これば責任は全て私のせい、です。

こういうとき、誰一人「お父さんのせい」という人はいませんね、不思議です(笑)。



確かに、子育て初心者マークつきの私でしたから認識が甘かったり、失敗したりはあったと思いますが、それにしても子育てとはこんなに重労働なのかとよくため息をついていました。


朝起きたらもうすぐにでも公園へ行きたがり、連れ出せば夜の7時になろうが8時になろうが帰りたがらない。


私はおにぎりと水筒を持って朝から晩まで長男が駆けずり回る姿を追いかける日々でした。


おうちの中では絵を描くことが好きで、紙のみならず、当然壁や床も、更には自分の体も、彼のキャンバスとなっていました。

色とりどりの色彩が部屋中に散りばめられるのです。


玩具箱に入っているものは、箱をひっくりかえして全てを床にばらまける。全て出さないと遊べないのです。


幼少期の彼の周りはいつもいろんな物が散乱し、ごちゃごちゃで、本人も常に動いて玩具の一部のように部屋のなかで散乱しているかのようでした(笑)。




そんな彼に大きな怪我が2つ起こります。



ひとつは滑り台の階段の一番上からの転落による脳震盪、ひとつは連れて行ったコンビニで、雑誌立てを倒して下敷きになり、額を何針も縫う怪我をしたこと。

その2つのハプニングにおいては、両方とも救急車に乗ることになりました。


どちらも、ちょっと瞬きをするなり、少し横を向くなりしたほんの一瞬の間の出来事でした。


脳震盪では意識を失って痙攣、額を切ったときは骨まで見えていました。
恐ろしかったです。ただ茫然と何も出来ず抱き締めて泣き叫ぶか、大丈夫、大丈夫と呪文のように繰り返すか、救急車、救急車と呟くしか出来ず、その場にいたまわりの人に助けてもらったのですが、この体験がのちのち私にある資格を取らせることとなります。


(痙攣と言えば、インフルエンザで熱性痙攣を起こした時も救急車でしたが。)


怪我に関しては私の責任は大きいのでしょうけれど、何度も何度も寿命が縮む思いで、一瞬で私の頭髪が真っ白になるのでは?と思ったくらいです。

そして、この子は20歳まで生きられるのか、と思ったりもしていました。


とにかく怖かったのです。


それから人混みに出るときは、私は彼にハーネスとリードをつけるようになりました。人間の子供用のですが、社会に浸透していないので奇異な目で見られましたが、息子の安全確保と、よそさまにご迷惑をかけないために必須でした。
私はそれらを使ったことは、良かったと思っています。



ここまで読んできてくださったお母さん方、この状態の育児をどう受け止めますか?

ただの母親の怠慢?
それともこの子は少しおかしいと考える?
公的機関に相談する?(夫への相談は我が家では意味を成さないのでなしです)


初めての育児でわからないことだらけ、地元を離れた遠い場所、まるであてにならない夫。


公的機関に頼る選択肢も浮かばなかった私に出来たことは、ただひたすら「自分の過失と受け止めて、自分を責めることだけ」でした。


「発達機能障害」という言葉に私が初めて出会うのはもう少し先のことになります。


続く
私には二人の息子がいます。

一人はもう18才に、もう一人は今日13才になりました。

18才は高機能自閉症(自閉症スペクトラム 或いは広汎性発達障害)、

13才はADHD(注意欠陥多動性障害)。

二人とも知的障害はなく、18才はIQ104、13才はIQ124(一部能力においてはIQ142を打ち出している)。


どちらもひっくるめて「発達機能障害」というものでした。


もちろん、その症状においては真逆と言っても良いほど異なり、家庭内においても二人は感じ方の違い、機能の違い、また空気が読めるのと読めないのとでよく口論になっています。

場の空気や相手の気持ちを鋭く掴むのはADHDの次男の方で、これとは逆にそこが読めずに自分の気持ちだけでものを言ってしまったり、空気を壊すのが長男です。

また、決まったルーティンを毎日こなしたい長男は、当然時間や学校へ行く、などに拘りがあり、休むなど考えられませんが、どうしても時間にルーズになりがちでさっと動くことができない次男、おまけに起立性調節障害も持ち合わせていて、午前中が特にうまく動けないその姿を見る度に苛々して、ついつい次男にしつこく「起きろ、動け、学校へ行け」と言い続けてしまうので、この辺りでもよく衝突しています。


それでも6才年の離れた二人は仲の良いほうなのかもしれません。


長男は、空気が読めなくて相手を傷付けるけれど、もともとの心根が優しいことを次男はよくわかっており、また次男は自分が衝動を抑えきれず厳しい言葉で兄を糾弾してしまうこともわかっており、それでも兄が決して自分には手をあげないことにも感謝しているからです。(本人談)
ちなみに、兄が弟をどう思っているかは不明です(笑)。
多分考えてみたこともないのではないかな、と私は踏んでいます(笑)。


さて、今日はそんな二人のうち、長男のことからお話を始めましょう。



私は結婚して、ふるさとの関東から関西へやってきました。(夫が関西圏の人でした)

けれど軽いカルチャーショックやら、知っている人、友達もいない場所で、おまけに夫はほぼ単身赴任になっていたのでいつもひとりぼっちで家にいましたから、早く子供が欲しいとも思っていました。

ところが子供はなかなか授からず、生理不順もあったため初めて婦人科を訪ねて検査をすると、不定期排卵と子宮筋腫があることがわかりました。

そこで大きな病院に変えて担当医師と相談しながら、筋腫は取らずに(取ると、子宮内部を傷付け着床が困難になると言われました)排卵誘発剤を使っての妊娠へとチャレンジしました。

幸い、それによって妊娠は確認されたのですが、悪阻が酷く、ひとりぼっちなのも不安で暫く関東の実家へ戻ることにしました。

けれど、関東へ帰ると出血や腹痛に見舞われ、急遽駆け込んだ大学病院で、産科医から大目玉を食らうはめになりました。


筋腫を持った状態での妊娠はリスクが付きまとっているのに、よくも関西から関東へ長距離を移動してきたものだ!

というお叱りでした。

この時、胎児の心音が僅かに弱まっており、それに対して無知な私がきょとんとしていたので、医者もいらっとしたのでしょう。


このままだとお腹の子供がどうなっても、僕は知らないよ!

と怒鳴られました。


私は怒鳴られたショックの方で泣きながら診察室を後にしました。

当然、関西への移動は出産まで禁止と言い渡されてしまいました。


今思うと「コウノドリ」に出てくる四ノ宮先生のような方だったのかも知れません(笑)。


それから病院を市民病院に変え、そこで出産まで診てもらうことが決まりました。


ただ、やはりあるひとつの申告を言い渡されました。


「あなたの妊娠はいわゆるハイリスク妊娠なのです。現在でも胎児と共に大きくなり続けている筋腫の状態から見て、何週まで妊娠継続が可能かわかりませんが、早産になる危険が高いです。もし、37週に満たない状態で産まねばならなくなった場合、或いは途中で筋腫を取らねばならなくなった場合、母子共に健全な状態で助けられる保証がありません。最悪、母子共に死亡の可能性もあります。」


これは人生初の命に関わる医者からの正式な告知でした。



その妊娠は自ら望んだものでしたが、まさかそんな事態になろうとは考えてもおらず、ましてや第一子で、我が子の可愛さというものが、わかっているようでわかっておらず、母子共に命が脅かされるようなことを言われてただただ不安でした。


そして妊娠27週で、私は陣痛を起こしてしまったのです。


激しい痛みに身をよじらせながら、私は父の車で救急外来に飛び込みました。

すぐに内診台にあがると、子宮口は2cm開いており、そのまま点滴に繋がれて車椅子でベッドまで運ばれて緊急入院となってしまいました。



その日は一晩痛みに苦しみ喘ぎ声をあげて泣きべそをかきながら過ごしました。

翌日には痛みは和らぎ、担当医とのムンテラが行われました。


診断は切迫早産。

胎児の推定体重は1200g。


今でこそNICUの様々な技術はあがっているのでしょうが、その当時は1200gで産まれては正直助けられるかわからないと言われました。


とにかくせめて36週、出来れば37週までもたせたいので、点滴は24時間つけっぱなし、ベッドから降りるはトイレと診察と歯磨き洗顔くらいで、あとはベッド上での絶対安静を指示されました。


この処置により、27週の陣発はなんとかおさまりましたが、結局36週に至るまでに小さな陣痛は何回か起きてしまい、36週で強めの陣痛も起きて、なんやかんやでギリギリ37週に持ち込んで、薬で抑えてきた陣痛を今度は強制的に起こすために陣痛促進剤を打たれて出産へ向かいました。


この時、筋腫は胎児の頭とほぼ同じ大きさになっており、長男は胸の前で筋腫を抱え込んで動けなくなっていました。

出産はカイザーと五分五分。


やはりなかなか降りてこれない胎児の状態を見て、医師がカイザーを決断してその準備に入った瞬間、助産師さんが「全開、頭部が出ています!」と叫ばれました。


私はそのまま自立歩行で内診台に上がり、そこからは素晴らしい早さで出産となりました。

最後、足首に臍帯が絡まって抜けないのを、お腹のしたの方で、赤ちゃんが必死で蹴って抜こうとしているのを助産師が教えてくれました。


そうやって産まれてきた長男は2500g、けれど、体温が上がらず、医師の刺激でなんとか泣かせて体温をあげさせ、そのままタオルと毛糸にくるまれて別室へと連れていかれました。


小さくて鶏ガラのような、毛糸に包まれた長男を見たのは、それから数時間後のことでした。頭にも毛糸の帽子を被せられていました。


しかし、とにかく母子共に無事に出産を終えたのでした。
(私の子宮収縮はうまくいかず、その後も2ヶ月関西へ戻る許可は降りませんでしたが)




こうして産まれた長男。

2ヶ月の時、夫に異動の辞令が下り、私は大阪から奈良へと長男を連れての引っ越しとなりました。




長男生後2ヶ月。

私は産後の体調がいまいちの中、初めての子供を抱えて、また見ず知らずの場所へと移ることになったのです。



続く