- FAR EAST BALLERS奮闘編 -
※個人の記憶を奔放に綴った内容ですので、事実と異なる点もきっとありますがご容赦下さい。
“もうそろそろキツイかもな”
2005年1月、今年最初の東高円寺練習からの帰り道で、AJに思わず言いました。
プロのストリートボール・クルーと名乗って活動するも、メンバーでバスケだけで食べていた者は0人。
自分も当然そうで、この時点では現状から抜け出せる道筋も見えていませんでした。
“今年やって無理なら、将来を考えないといけない時期だと思うよ”
AJは驚いた表情をしていましたが、それが現実です。
しかし自分のこの発言から数週間後、AJがこう言ってきました。
“なんとかなるかも知れない”
“どういうこと?”
“一緒にやりたいって人と出会ったんだ”
2月20日に代々木公園バスケットボールコートが完成。
その記念すべき日から約2週間後、AJ、KENSAKU、YONE、自分は夕方の川崎駅前にいました。CLUB CITTA’で打ち合わせをするためです。
チッタに到着し、2階席に繋がる通路の途中にあるミーティングルームに通され、打ち合わせが開始。内容はSTREETBALLのイベントをここで開催するため。
そのイベント名は『HOOP LIVE』。
AJが音楽LIVEみたいなバスケイベントをしたいと命名しました。
「STREETBALLとは、チーム同士ではなく個人同士の戦いである」
このテーマのもと、FEBメンバーを主体に、様々なチームから個人単位で選手を招集。
ゲーム内容は去年の沖縄で行った3on3「BATTLE ON THE COURT」をメインコンテンツに、同じく沖縄でやった1on1団体戦「SURVIVAL」、その合間に、今後行われる各方面のバスケットボールを紹介するというものでした。
その各方面のバスケットボールとは、まずは宮崎憲吾さんによる「ALL-SATR WEEKEND 2005」、そしてコミッショナーであった河内敏光さんを招いての「bjリーグ」、そしてこの時点では仮名「FAR EAST LEAGUE」であった、STREETBALL LEAGUEの開幕についてです。
“一緒にやりたいって人と出会ったんだ”
その人こそ金井さん。
この時点では大手銀行の要職に就かれていましたが、我々と一緒にSTREETBALLのLEAGUEを立ち上げるべく、会社設立に向けて共に動き出していました。
STREETBALLで「株式会社を作る」。この話を初めて聞いた時の希望と興奮、そしてある種の安堵は忘れられませんね。
でもそれが実際に行われるのはもう少し先のこと。
でもそれが実際に行われるのはもう少し先のこと。
いま目の前のイベント『HOOP LVE』成功に向けて、CLUB CITTA’がある商業施設の屋外広場「LA CITTADELLA」にて告知イベントを開催。
そしてプレスリリースを各メディアに送ったり、雑誌「DUNK SHOOT」や「WOOFIN’」などに告知記事を載せてもらったり、当時の我々ができる全てを懸命に行い、5月2日当日を迎えたのでした。
そしてプレスリリースを各メディアに送ったり、雑誌「DUNK SHOOT」や「WOOFIN’」などに告知記事を載せてもらったり、当時の我々ができる全てを懸命に行い、5月2日当日を迎えたのでした。
90年代の“ストバス時代”にも、CLUB CITTA’でイベントが行われていたと後々知ることになりますが、少なくともSTREETBALLの名のもとでイベントが行われたのはこれが最初です。
素晴らしい音響に照明演出、そしてハーフコートを観客が取り囲む密度の高い空間など、全員にとって初体験であり、まさしく眼をキラキラさせながらプレーしていました。
ちなみに自分はVJ素材の作成などで準備が終わらず完全徹夜となり、コンタクトレンズが辛くて眼鏡でDJをしてしまいましたね。
全てが手探りながらも、当時の我々のリソースや知見を結集し、一定の成功は収めたこの『HOOP LIVE』。
終了後にはシャンパンを開けて全員で乾杯です。
そんなことはそれ以降一度もやったことがないので、この日がどれだけ自分達にとって特別だったのかが伺い知れますね。




そして、次にこんな感じで“今回俺達よく頑張った”の乾杯をFEBがするのは、とある中華料理屋となります。
そんなことはそれ以降一度もやったことがないので、この日がどれだけ自分達にとって特別だったのかが伺い知れますね。




そして、次にこんな感じで“今回俺達よく頑張った”の乾杯をFEBがするのは、とある中華料理屋となります。
そのお店があった場所。それは海の向こう、ニューヨークのチャイナタウンです。
FAR EAST BALLERS奮闘編[完]
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つづく>