雑記-14 / 花 "藤井風" | でこのブログ

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「野球ってぇのはな、バットとグローブを持った喧嘩なんだ。わかったか、お前ら」

例えば、こういった言葉から練習後、ないしはゲーム後のミーティングが始まる。

この監督を指導した監督というのは、それ以上で

「命賭けて野球やれ」と⚔️🗡️

「朝は朝星、夜は夜星」と朝から晩まで野球漬けの毎日で、1年を通じて休みは元旦と成人式の2日のみ。

だったそうです😅

監督はもう鬼籍に入っているが、第二次世界大戦後何もない時代での部活動、野球部以外の部活でも用具を揃える事自体、大変な時代だったようで。
野球をすることにおいてもグローブさえろくに揃えられず、あったとしても革は薄く痛かったそう。だからこそ物を大事にする習慣が自然と身に付いた、ってなところで。

監督の監督は戦争に行った年代だから、命賭けて野球やれ!というのもなんとなくはわかるけど、今、そんなことミーティングで話したら「どうかしちゃったのかな?この人🤔」と思われそう😅

東京は、昔から早実、日大三それにその頃は慶應普通部が強く、そこを勝たないと甲子園には行けなかった。
なので、朝は朝星の話もまんざら嘘でもなく相当な練習をしたらしい。

で、ウチの高校。

行ったんです、そこらへんに勝って。

監督は神田の不良少年だったので、伝説の😅
甲子園が決まった時には謹慎中で連れていってもらえなかった。
この時のピッチャーは後にプロに入団した。
🐯タイガースに🐯
自分が現役の時、OBとしてグランドに遊びに来てくれた時に何度か見かけてる。

甲子園は都合7回?出てる。
最高はベスト4。

強い時代があった⚾


いつから弱くなった?

たぶん…

それは…

自分がキャプテンになった年から😓
それでも秋の新人戦はベスト16までは残った。

シード校を外れたこともそんなになかったと思う。
現に1,2年の時もその前もずっとシード校で、当時の東京ではシード校は4回戦が初戦という仕組みの中で最後の夏の大会が行われていた。

そもそも自分達の頃は部員数は少なくて、上も下も10人。


自分達はというと


3人😂


外部から入ってくるのは難しい時で、もっぱら付属中学野球部から高校に上がってくる生徒でチームが構成されていた。
その流れは今も同じ。
今は野球推薦もあるにはあるが、その基準が高く、野球が上手くても高校に入学することは、ほとんど出来ない。
セレクションには何人か来るのだか、まず受からない。
当時から受験で簡単に受かる高校でもなかったが、今はもっと難しいそう。

この間の夏の甲子園大会優勝校。

同期野球部の仲間が少年野球の指導者で、教え子の中に野球でスカウトされていった者がいたとかで内部事情を聞いた。

えーと、、、


やめとこ😅


そりゃそーだよなぁって感じ。

ま、いいんす、うちはうちなんで。

昔から慶應普通部は強かったと書いたが、自分達の監督が選手の時から髪の毛は長髪だったようで、それで勝負するわけでもないし、それについてはどうでもいいとよく言われた。

ちなみにうちの野球部。
このコロナ禍で練習が休みになっていた時期に勝手に髪を伸ばし始め、今では髪をかき分ける長髪の野球部になった。

兄が現役の時に慶應と練習試合をしたことがある。
試合前に「勉強で負けて野球で負けて、お前ら一体何の取り柄があるんだ」と試合前ミーティングで叱咤され、奮起した兄達は接戦の末勝ったという話がある。
4番キャッチャーでキャプテンの兄がホームランを打って勝ったゲーム。

今たぶん、野球部に関して言えば勉強では勝っているようで、勉強で負けての話は通じない、

みたい😅

弁護士、会計士、司法書士はOBに何人かいる。
何年か前に初めて野球部から他大学医学部に合格して医者になった後輩が出た時には、そーなんだぁと。

昔と今では全然違う。

でも、野球部OBとしては野球が強くなってもらいたいのよね😓


つづく。。


としとこ😅


藤井風 やっぱりいいっすね👍
でも、PVが、どうなんすかね。


しかし、

変わってるわぁ😅