雑記-15 / 傷だらけの天使 "ショーケン" | でこのブログ

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うっかり八兵衛でも、色々と思い悩むことがあり、そのことについて考えてたら、神田生まれ生粋の江戸っ子の監督から

「ごちゃごちゃ言ってねぇーで早く次行け!」という声が聞こえたので、その声に従います😅



監督語録は色々あった。


「お前たちに野球なんて教えた覚えはない。『男としての生き方』を教えてんだ」とか


「男ってのはなぁ『義理と人情と痩せ我慢で生きるものなんだ』わかってるか!」とか


もはや、野球というよりは他のなんだか今まで知らないような競技?をやっているというような錯覚を起こしかねない野球部生活で😅


しかしながら、その教えが自分のバックボーンになっていることは否めない。


監督の監督という人は後に大学の方の指導者として、精神野球、人間力野球を掲げ何十年も野球部に携わり、その教え子達は相当な数にのぼる。


自分自身、精神野球に傾聴しているわけでもないし、信者でも賛同しているわけでもない。

ただ、ミスターラグビー平尾誠二が言っていたように

「根性論はアカンけど根性は大切」には大いに頷ける👍


野球がグローブとバットを持った喧嘩なら、ラグビーはルールに則ったガチの喧嘩?😅

あの激しいコンタクトスポーツを経験したことがある方、尊敬してます🙇


神戸スティーラーズのファンクラブの会員になっちゃったし😅

李承信応援してます🥰



監督の監督は、自分達の時には高校総監督という立場で、直接指導を受けたことは1度もなかったが、年に1度高校生が直接交われる場があった。


お正月。


大学の合宿所でお汁粉を振る舞ってくれた。

「お前たち、たくさん食うんだぞ」と。


厳しかったけれど、それを上回る愛情、暖かさがあった。



現役時の日曜日練習前のことで。

中学野球部も土日午前中はグランドで練習をするのだが、その日はワタシ高校の合宿所に高校生では一番先に着いた。

「オス、オス」と挨拶してくれる中1なんて高3から見たら、そこら辺の子供(笑)

チンマイのがいっぱい居た。

高3だけ30畳程の畳の部屋で着替えられるが、それ以下は土間で全てのことを済ませる。 

3人での畳生活は広すぎたが、下級生では味わえなかった喜びから?か、以前より早めに合宿所に向かっていたのだ。

ある日曜日、なぜだか総監督が見回りで合宿所の方に来た。

来たというのは、総監督の声が聞こえてそれでわかった。


「なんだ、この汚いトイレは」

「高校生居るのか!」と😲


固まるワタシ😱


中学生は午前中早くに練習が始まり、高校生はその後入れ替わりにグランドの使用となる。


トイレが汚いわけがない😔

いつも掃除とかはキチンとやるし、合宿所内もそれなりに整理されている。

練習前、グランドにボールが1個でも落ちていたら、その日は練習さえも出来ないうちの野球部。

練習前と後のボールの数が合わないと、見つかるまで下級生は暗くなろうが帰宅が遅くなろうが探すわけだ。

練習後もボール同士を手に取り、はたきながら土も確実に落とさないと、チェック時、上級生に「やり直し」とボールケースごとひっくり返される。

3人でのその作業では、グランドに出る時分は22時を回ることも多々あり、都下から下町墨田区まで帰る頃には帰宅途中の酒臭いサラリーマン連中の中に入り、立ったまま寝つつ午前様なんてこともよくあり、帰宅を待つお袋にはかなり迷惑もかけた。


その頃から午前様だった😅


同期千葉県の鎌ケ谷住みだった友は、最終電車もなく綾瀬の親戚の家に泊まるなんて日もザラ。


そんなことを経験していない中学生は、周知されたグランドルールを知らない子達も多く、トイレにスパイクの泥がついたまま入り、トイレ内が泥だらけだったようで😑


「高校生はまだ来てないのか?」の声。。。😐


さすがに中学生には怒るというよりは「これはこうして掃除するもんなんだぞ」とお爺さんが孫に教えてる感じなのだけど、ワタシ、しばし聞き耳を立てて様子を伺っていた状態で😅


その掃除が行き届いているか否かに関係なく、合宿所で何か起こった時の全責任は高校生のキャプテンになるわけで😱😱😱


しばらくして中学生の

「はい!」

「はい!」 

「失礼します!」の声が聞こえた。


中学生よくやった!👍

「先輩来てます!」なんて言わないでくれた。

それに、うまく叱られてくれた👌


最高の結末💯


😅



ヒヤヒヤだったです、はい💦

総監督去った後に「わりぃ、わりぃ🙏」と土間の方にいる中学生には謝りましたけど。


いや「お前らがトイレを泥だらけにしたのがいけないんだろうが😒」


なんて言う気も起きない程、中学生は可愛い😚のでこちらからは何も言わなかった。


総監督が亡くなった時の忘れられないシーンがある。


グランド葬で、室内練習場のマウンド付近に焼香台等置いて、そこで全国から集まったOB達が最後の挨拶をするという形。


プロからアマから野球部関係者の大変な数のOBがグランドに集まった。


総監督は大学では野球部ではなく、応援団に所属して団長になった人。 

自分達の監督も同じ経路を辿った。

2人共言わば大学野球部にとっては部外者。


色々な軋轢もあったようだが、そんな大勢の錚々たるOBを差し置いて喪主を務めたのが自分達の監督。


ひとりだけで他は誰も寄せず、まるっきりひとりで遺影の横の椅子に座り、正面をじっと見据えていた表情は今でも忘れられない。


総監督にしてみれば、高校の時からの長きに渡る付き合いの中で、1番信頼していた人物が監督だったように思う。


神田の◯◯という威勢のいい少年がいた、と総監督が書いた何かの記事で見たことがある。



監督は野球を教えた覚えはないと言うものの、自身は野球殿堂入りしている第一回甲子園出場校、早実の先輩に野球を教わったそうで、言葉少なの的を射た的確なアドバイスは、しっかり見てるよなと感心しきりだった。


早実とは自分達の少し上までは、まだまだ対等に戦えたし色々と繋がりがある。


うちの球場開き、こけら落としの際も早実が練習試合の相手になってくれたほど。


早実も塾高も素晴らしい学校。


監督が受け持った代は自分達の代含めて6代。その初めての代の夏の最後の大会準決勝で早実と当たった。

初回こちらの攻撃で、ノーアウト満塁の場面になった。

4番はキャプテンで、前の試合も5打数5安打と絶好調だったそう。

策としては当然、強攻策。


カキーン⚾


ライブ!ではなく😅


カキーンと打った打球は3塁真正面で、なんとトリプルプレーをくらったと。


結局ゲームは僅差で負けて先輩達の最後の夏は終わった。


監督いわく「俺はついてるな、もしかして初めての代で甲子園かもな」と後日話していた位強かった初代だった。

甲子園チームとゲームしても勝ったり負けたりと、どんな相手でも引けを取らないチームだった。


そもそも、自分達の時も練習試合の相手からして甲子園チームかそれに準ずる位の力のあるチームのみで、練習試合の申し込みはよくあったが相手の情報でも無い限りまず受けない。



色々な思い出がある。



書ききれない程のたくさんの思い出が。




なので今日もまた




つづく😅




伝説の不良は監督に兄貴。

永遠の不良は↓のようで。

ショーケンいわく

「地元にケンのつく不良が3人いて、1番体がでかいのがダイケン、真ん中がチューケン、俺は体が小さかったからショーケン」と。

萩原健一の字からショーケンかと思ってたわ😅

還暦過ぎても知らないこと、未知の世界は多くある。


ノザキのコンビーフ食べながら牛乳飲むことは真似した😅

さすがにナプキンの代わりに新聞紙は使わなかったけど😅


中学生の時に欠かさずみてたな👍