一時期「毒親」というワードが流行ったことがあり、その時は「自分にとっては今更な話だな」と思っていた。

しかし、ある時、この言葉の由来は1989年にまで遡るというのを知り、大変興味を持ったので購入。

 

読んだ感想としては、虐待とその影響とその背景についてとても具体的に書かれていて驚いた。

わたしは今発達性トラウマについてまとめているが、解釈次第ではその内容すら包括していると言える本だと思う。違いとしては、発達性トラウマは発達障害疑惑から辿り着くワードであるのに対し、こちらは親への不信感から辿り着く本だろうということだ。

 

四半世紀も前にここまで詳細な著書がありながら、日本社会への影響があまりにも小さいのは、訳者あとがきにもあるように、精神的な虐待についての理解が浅いからだろう。というより、理解できないと言った方が適切かもしれない。というのも、この本を読んでいて感じたことは、この親子の関係は、そのまま日本の組織構造に重なるのではないか?ということ。近年、日本の会社で精神疾患を訴える人が増えていることはもはや自明であり、発達障害やHSPと言ったワードはその人々の受け皿となって久しい。それらは、先天的なものや家庭環境にその原因を求めるのが常であるが、組織に所属したことによって組織内のパワーゲームに組み込まれ、その立場の違いが「毒になる家」と同じものを生み出しているというのもあるのではないだろうか?

「毒になる組織」、「毒上司」、「毒同僚」。組み合わせればワードはいくらでも作れるが、この中には何か深刻なものが隠れているような気がしてならない。

 

上記のように、「家庭が毒」で「組織も毒」であるなら、すでに「社会そのものが毒」と言えるだろう。

この本を読んでいると、「毒になる親」と日本に根ざしている年功序列(儒教、朱子学)の価値観は、場合によっては蠱毒のための壺の役割を果たせる気がしてくる(わたしは儒教自体は嫌いではない。ただ、儒教は共産主義並に実現困難なものだと思っている)。

例えば、昭和であれば子どもは殴って育てるくらいの感覚があり、他人の家の教育には口を出さない慣習もあった。児童相談所による被虐待児の保護に対する執行力が、ここ数年まで弱かったのも、その影響だと思っている。

はっきり言って、毒にどっぷり浸かっている日本社会に毒親だなんだというのは、毒に毒を吐くようなものだったのだろう。平成の間に子ども達の様子が明らかに変わってきたことで、ようやくことの重大さに気がつき、軌道修正しているというところだと思う。

もっとも、ここ最近は、保育についても社会についてもあまり触れなくなっているような気がするが。

 

 

 

この本の優れているところは、経験に基づいた具体的な対応まで書かれていることである。

自身の抱えている問題に取り組むためのステップが、そのために必要なセリフに至るまで詳細に書かれている。もしこれを実行できれば、自身の問題に対して大きく前進することが出来る。

 

わたしの場合、この本と関係なく父親と対決した。そして、両親の居る実家に居続けるのは自分にとって想像以上に危険であると確信し、現在は一人暮らしをするに至っている。家族仲は悪くないし、向こうはわたしを愛しているつもりだろうが、それは日本の社会通念・義務としての愛であり、子どもとしてのわたしが求めているものではないことをわたしは確信している。

 

ただし、この本の弱点……というよりも、この毒親問題の最も困難な部分は、改善はされても解決はしないところである。

この本でも再三再四出てくるが、毒親問題の被害者が本当に欲しいものは、この世に存在していない。そのため、そのことを自覚することが、この問題のゴールとなる。

加えて、そのゴールに至るまでの道のりは、日本においては実質自分一人でなんとかするしかない。日本にその道のカウンセラーが全くありふれていない以上、この本を武器に立ち向かうしかない。この本を持ってカウンセリングを受けたり、大学の研究室を訪ねたりするのは有意義かもしれないが、その行動力が自分由来であるならその最終的な決断も自分自身でしなくてはいけない。

 

以上のような内容であるから、日本人に広く受け入れられる本ではない。

仮に毒親自身が読んでも、「こんな酷い親いる?」「こんなやつらはクズだな」とか言いかねない。おそらく、彼ら彼女らには、内省する力が存在していないからだ。あるいは、自分だけは特別なのだろう。

昔、どこかの学校で、教員間のイジメが大きなニュースになった。その加害者達は、学校内のいじめ対策の担当教員だったと記憶している。

加害者側の教員達が特別なサイコパスだったとは、わたしには思えない。