昭和労働者への劣等感 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

最近「らーめん再遊記」を読んでいるが、その中にはしばしば昭和後期の価値観が登場する。

作中においてその多くは否定的な扱いや時代遅れ扱いを受けるが、わたしはその中の昭和後期のハラスメントまみれで24時間戦っていた時代に対して強い劣等感を持っている。なぜなら、自分にはそれができないからだ。

 

「なぜそれができないのか」というのにはいくらでも理屈を付けられるが、できないという事実だけにフォーカスされるとそれはただの屁理屈、負け犬の遠吠えである。現場では、知識云々よりも、実際にできるかどうかの方が遙かに重要で、「どうしたら良いか?」と理屈っぽく考えるよりも、何も考えずに実力でできてしまった方が良いことは多々ある。効率が悪いだなんだというのであれば、圧倒的な実力でそれを見せつける必要があるのだろうが、そこまでできる人は極々希だろう。

 

職場の先輩方の話を聞くと、「昔は大変だったというフレーズを聞かないことはない。

そして、その言葉からは常に、その激務を乗り越えた自分という自信が感じられる。それに対して、相対的な評価しか出来ないわたしは、強い劣等感を覚えるのだ。そんなものに勝つ必要は無いし、無駄だと心底理解しているにも関わらず、どうしても抜け出すことが出来ない。それが何故なのかは未だに分かっていない。ここまで考えて分からないとなると、おそらくわたしの深層心理かアイデンティティに関わる問題なのだと思う。父親との確執も大いに影響している。この辺りについては、今後も折りを見て本を読み、調べていくことになるだろうと思う。