人と話すと疲れる もう会うことはない人 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

引っ越しにあたり、地元で交流のあったところ(前職場やボランティア)に挨拶回りなどをしているが、これが気軽なようで自分には意外とダメージになるようだ。

参考に以下のサイトを見てみたが、書いてあることは月並みで心当たりのある部分はあるにせよ、自分の状態と一致するものではないと感じた。

 

 

 

 

わたしの場合は特に、「もう会うことはないだろう」と思われる人とのやりとりが負担になりやすいと感じる。

それがなぜかを考えてみると、おそらく道徳的な自分と利己的な自分が対立するからだ。

 

この2つの自分は、それぞれ以下のように考えている。

 

【道徳的な自分】

●お世話になったのだから挨拶はしておくべき。

●お互い気持ちよく別れたい。

 

【利己的な自分】

●挨拶いる?面倒くさくない?相手も本当はなんとも思ってないよ?

●もう会わないのだから愛想を振りまくのは無意味。礼儀も最低限で良いでしょ。

 

つまり、

1.道徳的な自分の社会的な礼節に従って挨拶しには行く。

2.しかし、利己的な自分は常にその無意味さを訴えており、それが上から目線っぽい態度として滲み出る。

3.話し相手の態度に敏感なタイプの人(福祉系は多いかも)がその態度を察する。

4.相手の空気が変化したのは感じるため、自分の失点に気がつく。

5.別れた後にどうしてそうなったのか反省する。(この記事みたいに)

という流れを辿る。

こうやって見ると、わたしにとって赤の他人とのコミュニケーションは

もはや戦いだね!!

 

……わたしがなぜ子どもが好きなのかと言えば、その1つの理由に「こちらに気を遣わない」が挙げられる。はっきり言って、わたしの価値観は一般のそれと明確にズレているため、わたしの腹の中を探ろうとする人はだいたいその的を外している。また、わたしも自分の価値観で相手を測ると失敗するため、一般的な価値観と思われるレベルでの対応を心がけている。そのテンプレートから外れると、相手の空気は変わるので、そこからまたその理由を仮定して考察する。それがどうしようもなくめんどくさいのである。

 

個人的には、みんな本音で話せば良いと幼い頃から思っている。

建前ばかりで話すから説明が付かないおかしな部分や矛盾、伝統や慣習が大量発生するのだ。

大人や友達とのコミュニケーションが少ない現代っ子には、建前から本音を読み取る超能力を身につける機会はもうない。それが、現代病に繋がっているとわたしは思う。

そもそも、建前を使わなくてはいけないのは、本音がそれだけやばいことを考えているということでは?

もちろん、直球で「○ね」とか言うのはそれ以前の倫理観が終わっているので論外。そういった人は自然淘汰されて欲しいと思う。

そこまで極端な例ではなく、

A「興味ない」

B「あ、そう」

の人間関係で良いでは無いだろうか?

もしも興味があれば

A「それ興味ある」

B「マジ!?じゃあ、これとこれとこれは?」

A「いや、そこまでではない」

B「あ、そう」

くらいにはなるのだから。

実際問題として、人間関係の煩わしさから個人の距離は開いている。社会が成熟して持ちつ持たれつでないと生きられない時代はとっくに終わった。そろそろ腹を割って、好きな人間関係の中だけで生きても良いのはないいだろうか?

 

っと言うと「それは考え方が偏って危険」とか言う知識層がいるかもしれないが、特定の個人を好み続けることがいかに困難であるかはある程度の人生経験があれば分かるはずである。現代社会は、家族さえ煩わしくなるのだから。