保育士と性善説 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

今日、自転車で移動しながら考えたことなのだが、もしかして日本人というのは無意識レベルで性善説の信奉者なのでは?と思った。

主語がでかいかもしれないが、これが通ると色々と世の中の歪さに説明が付く気がする。

 

性善説というテーマを最近目にしたのは漫画「キングダム」における韓非子の問答である。

韓非子の説明に寄れば、「法は性悪説からなる」とのこと。つまり、法律は全ての人を悪人と仮定して設定される傾向があるということである。

 

では、性善説で法律が運用されるとどうなるのか。わたしが思うに悪人が得をする。なぜなら、常に情状酌量の余地が入るからだ。日本の法律が加害者有利というのは有名な話だが、人はいつか更生するという美談に酔っているのかもしれない。実際、悪人が善人になるというのは、善人が善人であり続けることよりも評価が上がる傾向があると感じる。これは、マイナスがプラスになる変化に対してエンターテイメント性が発生しているからだと思う。要するに、善人がゴミ拾いしてもそれは当たり前で、悪人がゴミ拾いをすることは素晴らしいことだと感じるバイアスが何故か存在しているのである。つまり、同じ善行をするのであれば、悪人の方が得るものが大きい。よって、悪人は得なのである。

 

では、それが保育現場ではどうなるのか?

言うまでも無いと思うが、保育園は福祉施設であり、福祉ということは一般的に考えて悪の入る余地がないくらい性善説で運営されていると考えて差し支えないと思う。

これの何が問題かと言えば、悪が想定されていないということで性悪説は否定されていること。そのため、「キングダム」の韓非子からすれば、法律の意味がないと考えるのではないだろうか? なぜなら、法は悪人の行動を制限するものであり、悪人がいないのなら法はいらないからである。では、保育士は法律がいらないほど人間ができた人達の集まりなのかと言われればそれはない。

それなら法律の出番もありそうであるが、現実には村社会的な暗黙の了解で秩序を保っている。それと法律のどちらが優れているかはなんとも言えないが、前者の方が不安定であることは間違いない。

 

保育の世界は、色々な理由から聖域と揶揄されることもあるが、部外者が立ち入れないからこそ成り立っているものも多いのかもしれない。