仕事への情熱 | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

仕事が人生の人というのは昔は多かったかもしれないが、現代はどうだろうか?

少なくとも、わたしと同世代かそれ以降の世代であれば、嫌いか無関心が大半なのでは無いのかと思う。

 

ただ、中にはやはり仕事に対して並々ならぬものを持っている人もいるわけで、わたしの保育園で例えるなら、冗談で「保育園に住んでる」と言える人が居る。実際、その人は完全な休日まで保育園に来て何かしている人なので、実際家に居る時間よりも遙かに長いかもしれない。

一方、「保育園に住んでる」とは言わないにせよ、朝から晩までずっと動きっぱなしの人も居る。こちらは保育への拘りも並々ならないものがあるし、勤務時間前に来て遅番ギリギリまでいるのがデフォルトである。早く帰らなくてはいけない用事が無い限り、何かしら仕事を見つけてやっている。

 

わたしはそういった先輩方の姿を見ると、はっきり言って吐き気を催す。

汚い表現であるのは百も承知であるが、ただでさえ無給のサービス残業が常態化しているというのにそれ以上のことをするという感覚が理解できないのだ。生理的に無理というのは、おそらくこういうことを言うのである。

 

こういった企業戦士・モーレツ社員的な、しかも出世とか昇級とかく全く関係ない利鋭気度外視な働き方をする人というのはそれほどな情熱もない社員・職員からすれば目の上のたんこぶもいいところだろう。仕事は契約なのだから契約内のことを最低限すれば良いのに、自分の人生そのものだからと言わんばかりに頑張るのは、組織全体で見ても職員の気遣いが過剰になって居心地が悪い。本人からすれば「わたしがやりたいからやってるだけ。悪いことをしてるわけじゃない」ということなのだろうが、気を遣わせられる側の気持ちを考えて欲しいものだ。まあ、本人の中にその感覚は存在しないから無理だとは思うが。

 

さて、上記の内容はほとんど自分の愚痴だったが、組織としては情熱のある人間は(仕事ができるなら)ありがたいことだろう。世に回っている綺麗事を除けば、やはり組織としては安い賃金でバリバリ働いてくれる人間がありがたい。外国人労働者をよく使うのは、彼らが安い賃金で働いてくれることもそうだが背水の陣で日本に来ているが故に仕事に対する情熱が段違いだからだろう。少なくとも、日本人の若者のように遊ぶ金欲しさとは比較にならない覚悟のはずだ。

 

しかし、日本には、わたし自身もそうであるが、仕事に対する情熱のない若者がたくさんいる。彼らが仕事を失った時、手元に残るのは自由ではなく虚無感である。自由とは心の在り方の問題であって、物理的な拘束は関係ない。自由な気持ちで仕事をしている人も居れば、虚無感に苛まれて自分の部屋に閉じこもる人も居る。そんな彼らがこれからの社会に良いものをもたらすかと言えば、それは考えにくいだろう。そういった人々を活用するための議論がもっとあっても良いと思うのだが、世間で言われるのは若くて優秀な人材のことばかりである。無能な人々を生かす方法がどこかにありはしないだろうか?