なぜ自由保育への移行は進まないのか ─ 保育者編 ─ | デブリマンXの行方

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いつか見えない社会問題になると信じている自分のような存在について、自分自身の人生経験や考えたこと、調べたことをまとめ、その存在を具体的にまとめることを目的とする。

 

 

以前書いた記事に、保育士がなぜ不適切保育をしてしまうのかの一例を書いた。

子ども想いの人でも不適切保育をしてしまう場合があるという話であったが、当然子ども想いの人でなくとも不適切保育は発生するし、なんならストレートにストレスを子どもにぶつけることだってあるかもしれない。

『子どもに関わる保育者の最大のストレスとは何か?』と問われれば、わたしは『子どもをこちらの意に沿わせること』だと考える。子どもというのは自然な生き物であり、人間よりも動物に近い。子どもにじっとしていることを強要するのは犬を無理矢理座らせるようなもので、訓練すれば身に付きはするが、そこに至るまでのストレスは大きい。特に、言葉を話せるようになった子は意思の疎通がしっかりできていると錯覚しやすいので、なおさらストレスが大きい。

以上より、自由保育の考え方は、子どもを自然のものと捉えることで相違ないと思う。

しかし、這えば立て立てば歩めの親心。できることをどんどん増やしていって欲しいのが大人の心である。

 

このできることをどんどん増やすことそのものは否定されるものではないが、その手段は好ましくないものが多い。子どもが教わることの多くは大人の常識であり、常識から外れれば訂正と叱責を受けかねない。これらは子どもの否定に通じ、子どもは大人の常識という答えに従い、それに外れないよう顔色を伺ってビクビクすることを身につける。その結果、自己肯定感は要領の良い子だけに与えられるようになる。つまるところ、子どもの質はその子の周りの大人の質である。貧困家庭から成功者になった者は、人生がドラマチックで面白いかもしれないが、ドラマチックでもなんでもない人生を送る者の方が遙かに多い。

 

自己肯定感やEQを育てる保育は学問の保育では常識だが、現場で実践できているかはわからない。

少なくとも、自分の勤めている園ではできていないし、そのような環境は整っていない。

保育士にその知識が無いわけではないが、実現には至っていない。というのも、どうしても這えば立て立てば歩めの親心で、できることをどんどん増やすことに傾倒していってしまう。はやくオムツを外したり、友達と鬼ごっこをすることを促してしまう。

 

どうしてそうなってしまうのかを考えていたが、「日本的ナルシシズムの罪」(新潮新書)という本の中で、堀有伸さんがいくつかの他者の著書から、まとめた内容が参考になると感じた。

加藤と中村の指摘に共通しているのは、日本人は「抽象的・理論的なものを避ける」、「具体的で感覚的なもの嗜好する」、「普遍的な原理より、具体的な人間集団の圧力が個人に優越する」ということなどで、これは日本の歴史を貫く傾向と言えます。

抽象的・理論的なもの(自己肯定感、EQなど)よりも、具体的で感覚的なもの(布パンツで過ごせる、鬼ごっこができる)を好んでしまうという。要するに、未来に役立ちそうなものよりも、今できることを重視する傾向があるということではないだろうか。あるいは、そもそも自己肯定感やEQなどの概念がただの言葉でしかないのかもしれない。

 

わたしの園に勤めている保育士はほとんどが自分の子どもをもっている。ハードな保育士業と家庭での子育てを両立する保育士にとっては、子どもに夢や希望よりも、どこまでも現実を見て生きて欲しいと考えてしまうのだろうか。あるいは口では夢や希望を大切にしながら、その実はとにかく堅実な道を選ばせたいのだろうか。いずれにせよ、わたしの知る限り、保育士の子どもが成功者になったという話は聞いたことが無い。(小学校の先生は良い話を聞く)